母の遺言を手伝う

母の余命がおそらくもう1ヶ月から2ヶ月。
今日は家族4人がそろって最後にすき焼きをやろう、と父が声をかけてくれたので向かった。
今月の3日にも夫と娘を連れて会いに行った。
その時に2人で話して形見分けをしてもらったりと、いよいよという気持ちが昂るところではあったが、まだ家の中をうろちょろする分には普通だった。
形見分けはおばあちゃんが、お母さんがお嫁に行く時に徳島で一番いい宝飾店で買ったネックレスと、HEROの北川景子モデルの腕時計だった。お母さん、意外と憧れて買ったりする人だったんだな。

しかし、今日はもう黄疸が出ていたり、脚の股関節に痛みがあるから、そこまで動くのも大変だということで、症状の進み具合に狼狽してしまった。
前回、遺言書を書いてみてはどうか、相続手続きが多少はやりやすいかと思うと言っていたので、「お母さん書いてみたんだけどどう?」と、聞かれたので見せてもらった。
全財産を相続させる、の遺言もいけるっちゃいけるけど、登記とかもあるし財産目録あったほうが良さそうということで、そこはプリントしたものでもいいし、私がスマホで登記簿見ながら作った。
紙の登記簿謄本、コンピュータ化前はこんなだったんだなと、これは大変な仕事だったろうなと思った。
売買年月日、私の誕生日なんだよな。たまたまかもしれんけど、合わせたのかな。
まあ転校ほんとにしたくなかったし、人格の発達に影響が出ていたと思うけど……。もう、あまり恨み言は言いたくはない。
周りが合わない、つまらない、というのは自分がとんでもなく幼かったし、周りに合わせる気もなかったんだろうなと気づいた。
これを人から言われるとすごくキレていたけど、それも幼さの象徴だよなあ。

それはともかく、紙の登記簿だと難しい方の漢数字だったり、縦書きで読みにくいので、登記情報サービスでもう一度確認しておく。
家のプリンタは壊れていたので、ローソンまで印刷しに行った。
赤い夕暮れのなか、寒い慣れた川沿いの道を行く。
私は何がしたかったのかなあとか、若いころの愚かさが本当に身に染みる。
あのままわけわからん業界でバイトをしていたら、こんな手伝い絶対できなかったろうな。

外まで行ってきたから、「わざわざ行かせて手間かけたね」と言われたけど、私の方が送迎だったり、無茶な要求たくさんしてきてたんよ。
何をしていたんやろうなあ私は。くだらないことにしがみついて本当に恥ずかしい。実存的貧困になってしまっていたのは否めないし、居場所のない若者だったし、社会の中で上手くやれないぎこちなさを当たり散らしていた。
精神的成長が止まって、育つことを人より遅延させてしまっていた。

という、考えがぐるぐると出てきてしまっている。

ここにきてようやくまともな大人になれたね。
子育てもあるし仕事もある。これがなければどんだけ子どものままだったろうか。

母とはたわいのない話をよくしていた。
栗原はるみのレシピから、料理人の有名人で、たまねぎや肉を炒め過ぎない話とか、
娘の話から、最近の調子とか。
今日もパンを焼いて行った。たまご白コッペパン、食べられてよかった。
すき焼きはコンロが壊れていて、鉄板焼きで代用した。2万円相当の牛肉だそうで、とてもおいしかった。

帰りにまたねと言われたけど、またねだよ。頼むよ。

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