死にゆく人間と残される人間の話
先日、祖父の入院する病院へ見舞いに行った。
祖父は末期ガンで、体液の循環ができなくなり、体中から水が噴き出し、おそらく余命幾ばくもないだろうと思う。実際、現在は積極的な治療はせず、痛みを取り除く事を中心とした緩和ケアを行っているようだ。
祖父のガンは数年前に発覚した。その頃から、祖父の年齢的に手術には耐えられない事、ガンの進行も比較的遅いだろうという事から、ガン治療はしないという方向だった。
ここ10年くらい、祖父とは盆と正月に顔を合わせる程度になっていたものの、変わらず元気なように見えた。日課である散歩を欠かさず、家から近い息子と孫の仕事場に顔を出し(手伝ったり、手伝わなかったり…)、畑仕事をし、晩酌をし… この人、120歳まで生きそうだな、なんて。
しかし、祖母に続き去年から介護サービスにお世話になり始め、毎年恒例になっている親族一同が集う新年会で、ついに乾杯の音頭をとれなくなり、衰えを感じた。
祖父も90歳。私(30代)の同級生は、祖父や祖母を亡くしている人が多い。薄々気づいてはいたものの、どうやら、そういう年齢らしい。
それでもどこかで、自分の親族は健康で長寿なのだと、高を括っていた。まあ実際、ほぼほぼ健康で長寿傾向なのは間違いないのだが。しかしいくら健康だ長寿だといえど、死なない人間はいない。
ついに、身近な死を受け入れる時が来た。と、体が急にずっしりと重くなった。
病室で、祖父は両手の自由を奪われ、鼻には酸素供給のチューブ。小さく白くなった眼は、近くのものしか見えないそうだ。正月に会った時とは別人のようだった。
ちょっと前まで元気だったのに…と感じるのは簡単だ。私が「じいちゃんは元気そう。ガンだけどきっとまだまだ大丈夫」などと楽観視している間、祖父と同居する伯父夫婦は、時時刻々と変化する祖父をずっと見てきたはず。遠からず…いつかは…と日々感じていた事だろう。その心労ははかり切れない。たまに顔を見せるだけで、現実的な部分を一切見てこなかった私がショックを受けるのは、ひどく勝手で、無責任だと思った。
それでもショックなものはショックで、数日落ち込んだ。というか今も落ち込んでいる。しかし自分がなぜそこまでショックだったのか上手く説明できずめそめそするばかりなので、言語化して整理しようと思う。
①死にゆく人間の姿を見たことが無い
まずはこれ。思えば、今まで死に向かう人間を間近に見てこなかった。近しい人の死といえば、小学生の頃に曾祖母を2人、最近では大叔父を亡くした。どの人にも幼少時にはたいそう可愛がってもらったが、死の瞬間というのは、正直「気づいたら死んでいた」という状況だった。曾祖母については、死にゆく姿を見せまいとする親の配慮もあったかもしれない(私を家に残して両親が看取りに行った)が、大叔父に至っては私が結婚して遠くに越したためか、通夜も葬式も知らされなかった。
葬式への参列で、所謂ご遺体を見る機会は何度かあった。しかし、人間がどうやって死んでゆくのか、死にゆく人間の姿がどんなものなのかは、全く知らなかったのだ。
②情報の最前線から外れることについて
これは結婚した時にも感じた事だが。私はきょうだいの中で唯一、故郷から数百キロ離れた土地で暮らしている。よって、親やきょうだいの様子を肌で感じることは出来ない。甥や姪の成長も間近に見ることが叶わない。助けが必要な時に、すぐに駆けつけられない。
祖父の病状は、姪の誕生日祝いで帰省した際に知らされた。自宅で祖父の容体が悪化して救急搬送されたのが年明けすぐだというから、私は1ヶ月以上、何も知らなかったことになる。このまま離れて暮らしていたら、家族が大事の時に戦力外とみなされるのではないかという不安に駆られた。結婚して別世帯になったとはいえ、何かあった時にすぐ駆けつけられない距離で暮らすのは、はたして正しいのか、と考えた。
③親を亡くすデモンストレーション
入院している祖父は、私の母の父にあたる。母は、人生で初めて実親の死に直面している。そしてそれは、近からず遠からず、必ず私の身にも起こる事なのだ。なんということか。
もちろん、母の精神面の心配は大いにある。しかし薄情にも、それより先に、自分自身が親を亡くす事への恐怖でいっぱいになってしまったのだ。20年後30年後、まさに同じ様な状況で、今度は自分が親を亡くすのだ。
帰り際、祖父は、自傷せぬようにはめられた手袋を少しだけ外してもらうと、私たち孫の手を強く握った。そしてしきりに「帰りたい」と訴えた。「もう少し良くなったら、迎えに来るから」と言う他ない。病室から引き上げる時は、ひどく胸が痛んだ。
どうすればいいのか。どうすれば、祖父の痛みや苦しみを取り除くことができて、尚且つ、残される人々が後悔なく祖父の死を受け入れ、送り出すことができるのか。その両方を望むのは、無理難題というものだろうか。
仮に、祖父が自ら「死に瀕した時はこうしてくれ」と予め言っていたとして、その通りにしたところで遺族の苦しみは少なく済むのだろうか。いや、必ずしもそうではないだろう。「延命治療を望まない」と言われていたとして、まだ生きている人間の人生を終了させる選択をするというのは、余りに荷が重い。また、延命治療をしてもしなくても、亡くなった際に「これで良かったのだろうか」という自責の念に苛まれている遺族の姿は、様々な折に見聞きする。
難しい。死んだ人が「あの時ああしてくれたから、苦しまずいい感じに死ねたよ!ありがとう!あの世で楽しくやってるから心配しないで!」なんて言ってくれようもんなら、報いもあるのだが。
どのように自分や他人の人生を終わらせるか、残される人間の心のありようなどは、答えのない永遠の課題だろう。
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