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爆発するインターネット

1993年から1996年にかけてキヤノンのNeXT事業部でNeXTSTEPの技術サポートと当時始まったばかりのインターネットを使った普及の試みを真剣にやってました。


いかんせん、普及していないNeXT上での事ですから、インターネットの素晴らしさは多くの人には伝わらず、既にインターネットを使っていた仲間内では忸怩たる思いがありました。

当時TCP/IPをまともに使えるのはUNIXマシンで、WindowsマシンもMacも独自のローカルネットワークプロトコルで周辺装置をサポートするという状態だったのです。


それまで和製英語「バージョンアップ」だったのが「アップグレード」になった

そんななかでWindows95が世界に大きな衝撃を与えたわけですが、当初はWindows95も積極的にインターネットにコミットする事はなく、インターネットで使われる基本プロトコルのTCP/IPもオプションでした。

しかし、オプションであってもTCP/IPをサポートしたのは大きく、前年の1994年に当時としては非常に良くできていたWebブラウザーNetscape NavigatorがWIndowsをサポートしてシェアウエアとして普及していたわけです。


Windows95の発売後に、ビルゲイツはインターネットのポテンシャルにようやく気づき、マイクロソフトはNetscape Navigatorに対抗する自社開発のWebブラウザーであるInternet Explorerを英語版発売後に国際版にバンドル(標準装備)したのです。

当初のInternet Explorerは出来の悪さから評判は悪く、Netscape Navigatorに貢献することになってしまいました。Netscape Navigatorを開発していたネットスケープコミュニケーションズは自社のIPOとあいまって、 マイクロソフトと対決する形になったのです。

もし、Netscape NavigatorがWindowsに標準装備されていたら、その後のHTMLの発展とJavaScriptの非互換性などは発生しなかったのかもしれません。

とにもかくにも当時世界のPCの90%の普及を果たしていたWindowsでインターネットを使えるという状況が突然発生したわけです。

結局使いやすくて情報サイトの構築が簡単なWWWがWindows95と共に爆発的に普及していきます。

私はWWWの持つ特徴がインターネットの特徴とぴったり一致していたのが爆発的普及の原因の一つと当時から考えていました。

・インターネットは全体を管理する事がむずかしいので独占できないネットワークである。それが対障害性の強みにもなっている

・ハイパーリンクという参照・引用の仕組みによって研究者の論文を作るのに適している(そもそものWWWの目的でもある)。

・引用部分を選択すると、その情報があるサイト(サーバー)に移動するので、情報提供者同士の連携が非常にわかりやすく理解できる

・いままで調べるのに手間のかかっていた情報を簡単に見つける事が出来る

この事を理解していた人達は、キーワードを入れて情報を探し出す検索サイトで使う検索エンジンを作り、公開していきました。

Webに特化した検索エンジンを開発し、その検索キーワードと参照先のリストを格納するいくらでも拡張できるサーバーシステムを1996年頃から構築して世界を席巻したのがGoogleです。

たまたまキヤノンとの関係で日本のソフトバンクにインターネットのポテンシャルを説明しにいったので、1995年から稼働していたYahooの創始者であるJerry Yangと話すチャンスがありました。

Googleを開発したラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンもYahooのJerry Yang(楊致遠)もスタンフォード大学の出身です。シリコンバレーの役割が大きく注目されたきっかけでもあります。

Jerry Yangは台湾出身の台湾系アメリカ人で、スタンフォード大学で知りあった日系アメリカ人女性と結婚していました。そのつながりもあってか、ソフトバンクの孫正義の援助を受け、ソフトバンクのインターネット普及に大きく貢献する事になりました。

話した時に感じたのは、Yahooの検索エンジンは検索ワードのカテゴリー分けと検索結果を人間が確認する事で人間味のある検索結果を提供したいという自由で人間よりのコンセプトを貫いているという事でした。

Steve Jobsと同じヒッピー世代の社会貢献とその失敗をしっかり理解した上で、新たなフロンティアであるインターネットに果敢に挑戦している人達がたくさんいたのです。

そんなわけで、数千人~数万人だったインターネットユーザーはあっという間に数千万にまで拡大していったわけです。当時インターネットに関わっていた人達はだれもこの事態を予想していませんでした。

WWWの特徴である、「いままで調べるのに手間のかかっていた情報を簡単に見つける事が出来る」ことが新しい情報を得る事に飢えていた人々を魅了したわけです。

なかなか見つけられない情報で非常に人気のあるものの一つがポルノでした。文化的・社会的・宗教的に制限のあった文化圏に住む人々(主に男性)がキーワードのついたポルノ画像を簡単に手に入れられるようになったわけです。


そして1996年にはNeXTがWebを通じて企業のデータベースにアクセスして製品情報を得て、その場で販売までできるいわゆるオンラインストアを構築できるWebObjectsというミドルウエア・フレームワークを発表したのです。

DELLやAmazonなどの大手のサイト、ピザ店、車の販売など人目を惹くサイトが乱立しました。

特に初期のインターネットオークションサイトであるeBayが大人気となりました。個人間で不用品を売買するという単純なコンセプトですが、インターネット以前は実際にコミュニケーション出来る人としか出来なかったものです。

eBayには役に立つ便利な物の取引以外にも、マニアックな古い物や故障しているものもたくさん出品されていましたが、マニア同士、その所有に意味を見いだせる人達がこぞって利用したわけです。

私はキヤノンでWebを使った商品販売を先行して行っていたわけですが、あくまで全世界でも1万人程度のNeXTのユーザー向けだったのです。1996年にはWebを使った情報提供・商品販売が始まっていきました。

実店舗に較べて圧倒的に安い費用でネットストアを開く事が出来るという事に気づいたわけです。日本でもYahooや楽天などのネットのショッピングサイトがどんどん出現し、これも爆発的に普及したわけです。

ネットでの販売にはアメリカでの州ごとに異なる売上税の問題がありました。しかし、当時のビル・クリントン大統領が、州や国をまたぐネットでの商品取引に売上税を課さなくてもよいという決定をしたのです。

なにせインターネット自体を構築するための関連商品はアメリカ企業(有名なのはCisco)が独占していたのでネットでの商品販売が普及すれば大幅に税収が増える(実際大幅増加)と見込んだわけです。

スタンフォード大学を中心としたカリフォルニアのシリコンバレーは世界のあこがれの地となり、優秀な学生が世界中から集まるという現象になったわけです。

その頃、1996年半ば頃のNeXTはどうだったかというと、Steve Jobsはもうコンシューマーマーケットでは自社の活躍は期待できないと見切って、すぐれた製品を生み出していたかつての自分の創ったAppleも敗者となるとみていました。

そのため、NeXT Software社を売り出すための準備としてIPO(株式公開)を始めていました。キヤノンは極東地域のNeXT製品の独占販売権を所有していたため、企業買収の話しもキヤノンに聞えてきたわけです。

1993年にはNeXTはハードウエアから撤退し、残ったハードウエア部門を引き取って新しい会社を立ち上げて存続させたのもキヤノンです。FirePowerという軍事企業のような名前の会社はキヤノンの資本で設立され、後にAppleのハードウエア担当副社長になるJon RubinsteinがFire Powerの社長でした。

キヤノンの社員も出向していたので、キヤノンの副社長の秘書の紹介で一度訪ねたこともあります。副社長のNeXTマシンを私がメンテナンスしていたので、他の重役や部長などのいる場所に出入りしていたのです。

1995年末には密かにキヤノンはコンピュータ部門からの撤退を決定していて、NeXTへの出資とその他の融資をどう処理するか1996年度に入って検討していたのです。

その副社長秘書から情報をえて、彼女はキヤノンでNeXTをやれなくなると一番悲しむのは私であると感じて事前に教えてくれていたのです。

NeXTのハードウエア撤退の決定会議がキヤノン新宿本社で行われていた瞬間に私はごく近くで待機していました。Steve Jobsがネットを通じてNeXTのサーバーにアクセスするかもしれないので接続する準備をしてくれと依頼されていました。

新宿からNeXTのネットに接続する事はなかったのですが、会議終了後にネットワークケーブルを準備した役員会議室に片づけに行ったら,ハードウエアからの撤退を記したホワイトボードの見てしまい、それを消したのも私でした。。。。。

1996年の春には私自身もNeXTから離れるキヤノンから離れる準備をしていました。NeXTのインターネットWebサイト構築で共同作業をしていた会社と接近し、投資もしていました。

そんな中、1996年の秋ごろには実際にNeXTを売却するという話しが飛び交いはじめ、OracleやSun MicroSystemsなどから日本での販売権に関して問い合わせが来ていたのです。

あまり重要ではないと考えていた副社長や担当部長などが電話の内容を大声で話したいたのを何度も聞いてしまって、わたしもその行く末に不安をもっていたのです。

1996年の夏にはキヤノンから大阪の会社に転職しました。投資もしていたので、マーケティング・東京地区担当の役員で採用で、優秀なエンジニア達の話しをたくさんヒアリングしました。

その中で、WebからデータベースをアクセスするアイディアをNeXTで実現したものをその会社も開発していたのです。つまりNeXT社のWebObjectsと同じものを日本でも同時期に開発していたわけです。

これをNeXTの社員に紹介したら、NeXTの日本の法人だあったNeXT Japanからクレームが入ったのです。WebObjectのデータベースアクセス技術の根幹にあったEOFというフレームワークの使用条件を検討するとWebから無制限にアクセスすることはライセンス違反であることがわかりました。

私は、このライセンス違反の状況を解決するためにキヤノンではなく個人として開発時期の優位性、悪気がない事、NeXTの普及のために開発した事などを説得材料にしたところ、独占販売権を持っているキヤノンと同等の代理店になることができました。

この事によって、NeXT事業部からすれば私は裏切りものになったわけです。それもあって、早々にキヤノンは退社して会社を移りました。

NeXTの普及活動と、NeXTを使った事業を推進し、コンピュータ雑誌に記事を執筆して会社の価値を高める活動をしていました。


そんな 1996年の年末、まさに12月20日にNeXTがAppleに買収されるというニュースが飛び込んできました。関係者も良く知らない状態で決定されたものでした。

衝撃もままならぬまま、買収の発表の場となった1997年の年初等にサンフランシスコで開催されるMac World1997に参加する事にしました。

なにせ開催まで2週間しかないので、手を尽くして航空券とホテルの予約を行い、急遽社長と共にサンフランシスコに行ったのです。社長(といっても前からの同い年の仲間)にドレスコードを聞かれ、シリコンバレーのイベント、特にAppleのものはカジュアル一択であると告げ,スーツは持っていってもいいけど会場では着ないように言いました。

Mac World1997はNeXTの記事の執筆で大変お世話になっていた技術評論社のSoftware Design向けのレポートを書く依頼をうけたので、報道であるPressの資格で参加しました。

お金のある(といっても会社は大赤字、使う金が大きかっただけ)時代のAppleですから日本からMac World参加の報道関係者に向けたAppleジャパン主催の夕食会(費用会社持ちで豪華だった)が開かれ、初めてApple関連の報道関係者と話しをする事ができました。

当然わだいはNeXTの買収とSteve Jobsの去就なわけですが、「NeXTってなんだ?」という疑問を全員がもっており、私はその頃顧客に配っていたSoftware DesignのNeXTSTEP特集記事の別刷りをたくさん持っていたので同席したジャーナリストに配って質問に答えました。


その時たまたま隣だった方にNeXTに関する記事の依頼を受けたのです。その結果他社の方からも次々に依頼を受けて1997年は各社のMac関連雑誌に記事を書きまくるという事になりました。

名前が売れたので、会社にも業務の依頼がたくさん来て結果的に売り上げに貢献する事ができました。営業にいろんな客先に連れて行かれました。嬉しい事でした。

アップルジャパンとの打ち合わせも行い、日本の担当者からAppleの技術を知るには1997年5月にサンノゼで開催されるApple開発者会議(WWDC)に参加するのがよいといわれ、これも急遽さんかしたのです。

日本からはだれも参加しておらず、一人で当時のMacの技術を見る事ができました。サンノゼは田舎です。のんびりした雰囲気でメキシコ風のホテルでおいしいカルフォルニアキュイジーヌを堪能しつつ密なスケジュールで参加をこなしました。

その年は5月にしてはまれにみる高温で雨も降り、湿度も高い、西海岸らしからぬ気候でした。15℃からせいぜい25℃くらいだとおもっていたので、ちょっと厚着で行ったので汗をかいて風邪をひいてしまいました。

その時、ドラッグストアでまさに解熱鎮痛剤を買ったのですが、そのとき、ドラッグストアのお姉さんが強く進めてくれたアセトアミノフェンのタイレノールを買って飲んだら体にばっちり合ってて良く効きました。あれ以降常備頭痛薬をアスピリンからタイレノールに変更しています。

一人で行ったのが幸いし、同行者に迷惑かける事なく風邪も治って、サンフランシスコの友達と一緒にWWDCを楽しみました。

実際に開発者と話してわかったのは、Macの開発環境は自社開発ではなく、他社の開発アプリケーションを使って、「指針」でしかないユーザーインターフェイス指導書を元に速度を稼ぐためにMC68000のアセンブラを多用しているという事でした。

MacのOSはせっかく68000であるにも関わらず、アプリケーションを保護するモードを使わずに特権モードで動いていたのです。なのでアプリケーションはバグがあるとアクセスしてはいけない領域まで浸透してクラッシュ・フリーズするものでした。

WWDCの発表の最中も頻繁にクラッシュし、発表が再起動の間中断するという事がしょっちゅうありました。

この後、もう一つ重要なミッションがあり、会議を持ちました。とはいっても、一つは立ち話に近かったのですが。

一つはAppleに移ったNeXTのメンバーによるWebObjectsの動向調査でした。まだNeXTが採用していたObjective-Cという言語ベースのWebObjectsのさらなる開発を日本の会社が手伝うという提案でした。

WWDCの会場で担当者を見つけて、統括管理者を紹介してもらい、話を切り出して提案を伝えました。カフェに移動して話しをしたのですが、提案そのものはありがたいが、コードを外に出すわけにはいかないので、エンジニアを半年程度Appleに派遣してくれるなら実現するというものでした。

残念がらその派遣の要求には応えられそうにないが、日本に持ち帰って検討するとは言ったのですが、結局実現しませんでした。

もう一つはNeXTSTEP向けのアプリケーションをたくさん開発していたLightHouse Designのアプリケーションを日本で継続開発と販売したいという提案でした。前年の1996年中にLightHouse DesignはSun Microsystemsに買収されており、NeXTSTEPのすぐれたアプリケーションはSunのプラットフォームに移植される予定になっていました。

前から懇意にしていたLightHouse Designの代表であるJonathan Schwartzと会議をして、提案を伝えると、Sun MicrosystemsはJavaのデスクトップの開発に力を入れており、LightHouse Designの技術を利用する予定だが、それはあくまでJavaのプラットフォームに特化したもので、それまで開発・販売したNeXTETP向けのアプリケーション群は基本的には廃棄するというものでした。

その悲しい回答に大きなショックを受けました。会議室を出ると、アプリケーションの日本での販売と開発を協力してくれていた、LightHouse Designの日系3世エンジニアであるRobert Kedinが待っていてくれて、久しぶりに話しをしました。

Jonathan Schwartzの話しは本当である事を信頼できる友人から確認できました。彼はとても残念がっていて、私とその悲しみを共有できて、今後も親交を約束して会議を行ったSan Mateoを後にしました。


後にLightHouse DesignはNeXTSTEP向けのアプリケーションをそのままの形態で無料開放しました。Omni Developmentの強力のもとで開発されたアプリケーションはその後も形を変えてOmni DevelopmentからMac OS Xのアプリケーションとして販売されました。

今も、OmniOutlinerやOmniGraffleなどいくつかのOmni Developmentのアプリケーションは使い続けています。

WWDCに日本人が参加していなかった理由がわかりました。なんと、日本でもWWDCの縮小版が2~3月後に本社からエンジニアを呼んで開催されてたのです。なんと贅沢なんでしょう。ずいぶんとお金のかかるイベントでした。


Webを使ったオンラインストアも爆発的に増えて、シリコンバレーではネットバブルが起きていました。

この後、MacにNeXTの技術が採り入れられ、Mac OS Xとして発展していくわけです。

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