NeXTの中へ
1989年の年末にCanon NeXT事業部に移りました。その時在籍していた日立グループの会社と1ヶ月ほどもめてやっと移ることが出来ました。埼玉の群馬県境にある独身寮にいたのですが、新川崎にアパートを借りて引っ越し・独り暮しが始まりました。
4人用のパーティションで区切られた居室に自分用のNeXT Cubeが用意されており、夢のように快適な環境でした。NeXTを独り占めできるわけです。ビルの一階にはハンバーガー屋が入っており、朝はそこでカスタードクリームの入ったクロワッサンを買って食べてました。コーヒーは居室内に用意されており自由に飲むことができました。
開発を担当している部署だったので、全員カジュアルな服装で女性とアメリカ人の同僚がいました。しかし、他のメンバーは社内・外から先行された非常に優秀な方たちばかりで部長以下東大出身者が何人もいる状況で最初はかなり気後れしましたが、カーネル担当という事でやる事は決まっており誰かと相談しながら仕事を進めるという状況ではありませんでした。
日立時代も独りでだいたい仕事する事が多かったのでそんなに不安はなく、アメリカ人の同僚も日本語が堪能で仲良くさせていただきました。
キヤノン側のNeXTSTEP日本語化作業はまだ始まってそう時間が経過していなかったのですが、社内公募で参加した多くの人が、開発・営業・マーケティングに在籍しており、2フロアを占めて結構な大人数でした。
この頃、それまでキヤノンとキヤノン販売で製品開発と営業を明確に分けていたのですが、NeXT事業部だけは本社に営業部隊も抱えていました。後に営業はキヤノン販売に移管されるのですが、僕はNeXT Cubeを社員価格で個人購入しました。
最初のケースだったので、副本部長自ら手続きをしていただいて、その後今も交流のある方が担当になってくれました。副本部長の裁量で社員価格は半額以下だったのです。プリンターも購入しました。
会社でも自宅でもNeXTを触ることができる夢の環境が整いました。
残念ながら、職場では、NeXTを否定する発言も多く、インテルハードウエアとマイクロソフトを支持する人の方が多かったのです。みなさんUNIXとオブジェクト指向プログラミングにはそんなに興味はなかったのです。
僕のストレスは大きくなるばかりという状態が始まってしまったのです。自分の能力の低さにすごく落胆したのと、後にストレスが元で鬱状態になってしまい、休職することになってしまいました。
しかし、NeXT事業部は豊富な資金を持っており、データショウなどの大きなトレードショウに積極的に出展していました。やはりNeXTの話題性は非常に高く、非常にたくさんの来場者がありました。
僕もショーでOS担当として説明を担当し、ハードウエアの担当だったアメリカ人の同僚と共にたくさんの質問にできるだけわかりやすく対応するように努めていたのです。
ショーには電通が入って非常に豪華な演出をしていました。実際に客に向けてアナウンスをする優秀なナレーターコンパニオンも来てて、かなり内容のむずかしい原稿も30分くらいで暗唱してまるで開発者のように話すのでした。
そして、1990年から1991年にかけてキヤノンが主催するNeXTのイベントも開催され、Steve Jobsも来日し、講演を行いました。その時、開発メンバーだけに次期バージョンの説明がされたのです。
あまり広くない一つの部屋にSteve Jobsとエンジニアが来て、NeXTSTEP2.0の計画と日本語版の開発方針のすり合わせが行われました。
通訳を介さない会議だったので間近にいるSteve Jobsの話しを聴くことができて、彼がNeXTを作って基本ソフトウエアをどう作りたいのか、そのモチベーションは何なのかを聴くことができました。
キヤノン側はキヤノン開発の日本語かな漢字変換モジュールと日本国内だけで販売可能な高品質のフォントの問題があるので、日本語版は分離した形で販売する計画がほぼ決まっていたわけですが、この時の会議によって統一した一つのバージョンをリリースする事を目指すという事になりました。
なぜそうしたいかというモチベーションはSteve Jobeが持っていたもので、NeXTのソフトウエアは多文化・多言語に一つのリリースで対応したいというものでした。アメリカの文化を押し付けるのではなく、多様な文化に対応したいというものです。これはSteve Jobsが日本の文化を愛していた事にも大きく影響されています。
この方針をNeXTのメンバーは十分に理解しており、開発環境とアプリケーションの構成に関して画期的なアイディアが出され、すでに実現していました。
今だ継承されている多言語たいおうのアプリケーション構造はこの時つくられたのです。
OS担当のAvie Tevanianもオープンソースを積極的に採用して、OS(カーネル)は言語・文化に依存しないものにする努力を始めていました。
僕はこの後、Avie Tevanianと連絡を取りながらカーネルとUNIX部分も言語に依存しないものにするべく、調査と検討をつづけました。
この時、ベジタリアンであるSteve Jobsと肉が好きなAvie Tevanianとの間で食事に関してはまったく意見が合わず、日本滞在中もAvie Tevanianは肉を食べたいのだがチャンスがないという不満をもらしたので、キヤノンの接待でAvie Tevanianをステーキ屋に連れていって一緒に高級ステーキにありつきました。
コックが目の前で鉄板の上で調理をするという形式のいわゆるベニハナ方式のお店で、コックのナイフパフォーマンスも楽しんでもらいました。
Avie Tevanianに提案されて、連絡は電子メールで行う事になりました。キヤノンはその時既に初期のインターネット普及に貢献しており、多少時間はかかりましたが、事業部でもNeXTSTEPの大きな特徴であるマルチメディア電子メールを使えるようになったのです。
超高学歴の人にありがちなわけですが、英語での電子メールのやり取りに「まちがい」があってはならないという気後れがあって電子メールの普及は少しずつしか進みませんでした。
NeXT社との情報のやり取りはメディア(当時は光磁気ディスク)のやり取りで、フェデックスやUPSで直接やりとりされていました。電子メールであれば、コードを含めてあっという間にやり取りできるようになりました。
早速、カーネルとUNIX部分の日本語対応に問題がないかどうか調べるために当時のNeXTSTEPのカーネルで採用したBSD UNIXのバーションを問い合わせたら、BSD UNIXのソースがそのまま電子メールの添付ファイルとして送られてきました。
カーネルとプログラマのやり取りの大部分はUNIX経由で行われるので、UNIXを調べれば大部分は見通しが立つわけです。
1ヶ月半くらいかけて丁寧にUNIXを調査した結果、特殊なハードウエアサポート意外は問題ない事がわかり、修正点(といっても1行だけ)をNeXTに送って、僕の仕事はほぼ終わりました。
他のメンバーはUNIXのライブラリとコマンドの日本語化という地道な作業をずっと続けていました。僕も一部手伝いました。
その後にNeXTSTEPのデスクトップの日本語化に対して深い考察をしたり、かな漢字変換システムの評価を行いました。CANONは販売していたワードプロセッサに搭載していた他社から使用権を買い取った日本語変換モジュールを保有しており、契約上は割と自由に使えるようになってました。
幸いCで書かれていたので、すんなりNeXTSTEPに移植できました。その移植したかな漢字変換に新聞一部分に相当する漢字をひらがなに変換したテキストを入力して変換効率を調べました。
句読点無しの長文ではかなり高い変換効率でした。当時から人気のあった一太郎などで採用されていたATOKは人間が文節に変換してその都度変換を行うものでしたが、文節分離の分を大きな辞書で補っており、そちらも変換効率は高いものでした。
のちにClareという名でリリースされました。専門語辞書もそなえており、特に医学用語に強いのも特徴でした。新聞記事の漢字をひらがなに変換する作業はデータ入力のパートの女性を雇って辛抱強く進めました。漢字や熟語の読みを調べるというのはなかなか大変な作業でした。
その後、休職を経て、部署を異動して技術サポートに移るわけです。
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