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8月15日(木)日記 「推し」がいない

私には「推し」というものがいない、と思う。

たとえば好きなミュージシャンや芸人がライブをしたら、観に行きたいとは思うし、足を運ぶことも多い。テレビに出れば観るし、ラジオに出れば聴くし、グッズが出れば買うこともある。でも、すべての活動を追っているわけではない。そこまでの熱量がないということでもない。生で見られたら嬉しいし、ファンサービスをされたら喜ぶ。でも「推し」とは違うな、と思う。

いわゆる「推し」がいる人たちを見ていると、活動を応援するためにたくさんのお金を使ったり、すべての活動をその目で見届けるために予定を組んだり、推しにすべてを捧げるかのごとく忙しくしている人が多いように思う。自分のお金と時間を提供することによって「推し」が成長していくのを感じるのは、充実感があるだろう(もちろん、推し方というのは人それぞれであることも知っている)。

私が好きな存在は、「推し」ではなく「スター」であることが多いのかもしれない。

「スター」は、もちろん同じ人間ではあるけれど、住む世界が違って、その人だけの才能を持っていて、君臨している。努力もしているだろうけど、その姿は見せない。ファンに感謝はするけれど、お互いの立場には一線を引いている。ファンもそれを心得ていている。こちらがお金や時間を使うのは、あくまでその才能によって生み出されたものを楽しみたいから。

とはいえ、「スター」であることを期待もしない。期待とは異なる発言や行動をしたときに失望するようなこともない。こちらはそもそも、期待も失望もできる立場にいない。活動をするのも、ファンに何かを提供するのも、スター次第だと思っている。活動を終えてしまったら、それはさみしいけれど。でもスターにはスターの人生があり、ファンにもファンの人生がある。それらは基本的に、交わるものではない。

あくまでこの「スター」の定義のようなものは私のイメージではあるけれど、少なくとも私が応援するのは、こんな感じの存在であることが多い。そして「推し」とはずいぶん違う気がしている。

はっきりと言っておきたいのは、「推し」という概念を否定しているわけではない。ただ、昔に比べて「スター」として活動するような存在は、少なくなったように思う。

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