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分人主義からみる花譜と廻花

初めに

廻花をはじめて観測してから1年弱、いくつかの文献を漁ったり、ふとした時に花譜と廻花の関係性を思案したりしていたら何となく両者の関係性が言語化できてきたので、怪歌(再)の直後という格好の機に僭越ながら花譜と廻花について書いてみようと思い筆を執ることにした。
アバターと分身の研究をしている手前、両者の関係についてはいつか言語化しなければならないというポジショントーク的な強迫観念に駆られていたが、今回はひとつの特殊解を得られたと思う。もちろん解釈は無数にあり今回の解が唯一絶対の解という訳では無い。

分人主義について

今回は花譜と廻花の関係性を言語化していくのに分人主義という考えを援用する。詳細は参考文献に詳しいが、ここで簡単に分人主義について解説する。分人主義とは作家の平野氏によって提唱された概念である。心理学や文化人類学にも似た概念が存在するがここでは割愛する。
分人(dividual))とは人格が切り分けられない個人(individual)とは違い、人や環境との相互作用によって生じる複数の人格である。例えば、友達と遊んでいる時に急に親に出くわしたら少しよそよそしい感情になったりする。これは普段親(ないし友達)といる自分が唯一の本当の自分という訳ではなくて、友達といる時に表出させている感情や振る舞い方が親といる時とのそれと異なるからである。別々の環境で対応や過ごしやすさ、振る舞い方などが異なることがそれぞれ別の分人である。

花譜と廻花の関係性について

さて、分人主義についてさらったところで本題に入っていこう。
前提として花譜はカンザキイオリやPALOW.氏やPIED氏、その他大勢のクリエイターやスタッフからなる存在である。そんな大勢の思惑が分人のひとつの人格として大きな割合を占めていた。実際怪歌では、花譜はたくさんの人から成り立つ花譜は自分の力だけでは存在しえ無いと吐露している。しかし作詞をコツコツしていた花譜はその延長線として作詞した曲をライブで披露し始める。身の丈を綴った曲を披露する人格が、たくさんの思惑で種雁字搦めになった人格と衝突するのは想像に難くない。
既存の多くの思惑で雁字搦めになった人格(花譜)に無理やり等身大の自分を宛てがうより「作詞した曲を披露したい等身大に近い自分」(廻花)という新たな分人を誕生させる方がダメージが少ない。
我々が新たな界隈に足を踏み入れてしばらくしたら、今までの人格と切り離すために新たなTwitterアカウントを運用し始めるのとちょうど同じようなものだろう。
つまり、廻花の誕生によって花譜が上書きされたり、存在が消されたりしたのではなく、新たな人格が誕生しただけである。花譜の素の状態があるとしたら、その存在は花譜+廻花+その他いくつかの人格からなっている。
もちろん廻花が受けいられないという人もいるであろう。人の数だけ解釈はあってしかるべきであろう。しかし、少なくとも筆者は、アバターという力を使わなければデビューしえなかった花譜という存在がシンガーソングライターである人格を表出させ、また次へと羽ばたいていく様を楽しみにしている。
はなかっぱと一緒にウ〜ッかいか〜ってやってくれ。


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