猫メガネ

まだまだ溢れる「発達障害」(本研究会開催の意図①CHEESE#01-1a)

ちまたに溢れる「発達障害」。
まだまだ「発達障害バブル」が残存しているように思います。

「あの人、発達障害じゃないの?」
「あの子、発達の問題を抱えてるよね…」
「私、もしかしたら、発達障害なのかな…」

猫も杓子も「発達障害」

こんなに「発達障害」は多いわけがありません。
「グレーゾーン」という言葉があります。
「発達の遅れ」、「発達の問題」などなど…。
「発達障害」については色々なことが書かれていて、
専門的なところは、専門家でもまちまちで、
さらに言ってしまえば「ピンキリ」だから…。

これを読んでくれている方には
——おそらく「発達障害」の専門家ではないだろうし、
そうではない方に向けて書いているつもりです——
DSMとかICDとかって診断基準を知ってほしいのではなくて、
次のようにざっくりと「発達障害」を理解して頂きたいと思います。

それは…
「発達障害」とは、
「生まれる前からほとんど決定している
“現代的な人付き合い”におけるハンディキャップ」
であるということ。

ポイントは2つ

1つは「生まれる前」からのものということ、
「遺伝的」、「遺伝子的」、「先天的」ということです。
その反対にあるのは、「生まれてからのもの」で、
「環境によるもの」、「生育によるもの」、「後天的」ということです。
これは「発達障害」ではなくて、むしろ、「愛着障害」という言葉で理解して頂いたほうがおそらく現実により接近できると思います。

画像1

「発達障害」と「愛着障害」。どのくらい違うか。
生まれながらに足が8本あれば「タコ」です。
足が8本になっていても、
減ってしまってその本数なら「イカ」か「クラゲ」か…。
そのくらい違います。

「発達障害」とちまたで言われる群には、
そうじゃないものがたくさん混じっているように思えます。
この喩えより遥かに多く。

画像2

ポイントの2つ目は「人付き合い」の前につけた「現代的」という言葉。
仮に、ネコも杓子もあなたも私も「発達障害」だったとします。
それならば、それはもう、そっちが「普通」。
皆ちがって皆いい。みんな仲良く暮らしましょう。

どのような環境でどのような生活をしているか

「精神疾患」あるいは「精神障害」という言葉を使うときには、
「個性」との問題と絡める場合もそうですが、
その人の「社会適応」が問題になります。

死者の霊を降ろしていると思い込んでトランス状態に入っても、
都会の真ん中では通用しないかもしれませんが、
職業として成立する場所もあります。

同じ状態でも、どこにいるかで「病気の人」にも「神の使い」にもなる。
それぞれ、どのような「生活」をおくるでしょうか。

画像3

言ってしまえば、どのような傾向をもっていても、
その環境に馴染んで生活することができていれば、
それは「精神疾患」あるいは「精神障害」ではありません。

なおすべきは「社会」や「常識」ではないか

「眼鏡」があれば生活できますが、なければ「弱視者」です。
猫も杓子も「発達障害」なら、その頻度で「発達障害」があるなら、
直す(治す)べきは、「社会」の方で、「常識」の方です。
「眼鏡」は「弱視」を治していませんが、
「弱視者」でも参画できるように「社会」を直しました。
「常識」を変えたということです。

繰り返します。
仮に「発達障害」が溢れているのであれば、
直す(治す)べきは「社会」で「常識」です。

続く…

いいなと思ったら応援しよう!