【書評と私見】施光恒『英語化は愚民化』(集英社新書)
施光恒『英語化は愚民化』を読了。
http://booklog.jp/item/1/4087207951
以前から昨今の英語化への流れには疑問があったが、この本を読んでその思いは確信に変わった。すなわち、「英語化は愚民化」である。
小学校から英語教育を、と叫ばれて久しい。言語を学ぶのは早ければ早いほどいいのだと。「英語入試の4技能化」も話題だ。英語を母語とする教師による、いわゆるオールイングリッシュ形式の授業が理想的なのだという。
こういった文言を目にするたび、“まず日本語なのではないか”と感じてきた。筆者は仕事柄ふだんから子供たちと話す機会も多いが、彼らと話していてもそうだし、過去の自分を振り返ってみても然りだ。
著者はこの本の中で、英言語教育学者ロバート・フィリプソン『言語帝国主義』の一節を紹介している。
「児童・生徒がすでに身に着けている言語の土台があり、それに十分関連付けられて初めて外国語の学習が進むのであり、そうした関係を軽視してはならない」
「学習者と言語や文化を共有し、また自らが第二言語として英語を学習してきた経験を持つ非母語話者のほうが、学習者の言語的及び文化的ニーズをよく理解しているため、単なる母語話者よりも教師としてふさわしい」
「理想的な英語教師を母語話者とすぐに結び付ける発想自体が拙速である。この信条は科学的な妥当性をもたない」
また著者は、近年の日本で急激に進む英語化は、いわゆる「グローバル化」の一側面であると主張し、その背景にある新自由主義に警鐘を鳴らす。
筆者自身、先に述べたように今の英語教育に疑問があり、同時にグローバル化にも否定的ではあったが、これらの根っこが一つというのは目から鱗だった。
そもそも、グローバル化が本当に未来の世界なのかは甚だ怪しい。インターネットが生まれたときにも、オトナたちはこれで国境は関係なくなり一つの世界に、みたいなことを言っていた。それが実際発展したのは、2chのように“方言”で意図的に隔絶した空間や、リアルに根差したFacebook、一昔前なら紹介制だったmixiのような閉鎖的なコミュニティだった。人やモノの流れが容易になればなるほど、ローカルなものの価値が相対的に上がるのではないか。音楽がデジタル配信されるようになり、ライブの価値が上がったことに似ている。国や地域といった“地元意識”こそ、人々にとって最も身近なリアルだからだ。
著者・施光恒氏は、また別の視点から“グローバル化こそ歴史の必然であり、進歩である”とする「グローバル化史観」に反論している。
曰く、西欧の近代化の歴史を例にとると、ラテン語という普遍的な知が宗教改革を通じて現地語に“翻訳”され、各地域に根づいたことが多くの人々の社会参加を促し近代化への活力となった。明治期の日本にもまた、外来の知を翻訳し既存の社会や文化に“土着化”させるプロセスがあった。いずれの場合も、ごく一部の特権階層しか先進の知に触れられなかった時代に比べ、翻訳と土着化によって多様な知に格差なくアクセスできる公共空間が生まれ、多数の一般庶民が学び、力を結集できたことが近代化のカギとなったのだと。
もし日本がこのまま、グローバル化の流れに乗って英語化を推し進めていけば、英語を話せる層と話せない層で格差が生まれることになる。当然だが第二言語の習得は、経済的・時間的余裕に恵まれている上層階級の方が圧倒的に有利だからだ。多数の一般庶民を排除してしまうグローバル化=英語化は、進歩どころかむしろ“中世化”とでも呼ぶべき反動と言えるだろう。これが、著者の言う『英語化は愚民化』の正体である。
かつて日本が発展したのは、日本語が高度な思考を可能とする言語たり得たからだ、とする著者の描く未来像には、日進月歩の発展を続ける翻訳ソフトの想定はない。攻殻機動隊よろしく電脳化とまではいかなくとも、ウェアラブル端末による同時翻訳などは近い将来実現するだろう。そうなれば母国語同士での会話が主となり、今以上に如何に思考するかが重要になってくる。
新しく何かを作り出す時は、必ず、新しい「ひらめき」や「カン」「違和感」のような漠然とした感覚を試行錯誤的に言語化していくプロセスが求められる。このプロセスを母語以外の言語でやることはほぼ不可能だ。(本文より)
その通りだと思う。