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チャリダーアキの自転車世界旅行 オーストラリア一周編(1)

再び始まる旅の前に
 
 また旅に出ることに決めました。日本に帰国して2年間、渋谷区にある病院で介護の仕事をしながらお金を貯めました。一般世間の常識を少しだけ身につけ、真面目にコツコツ働く事の大切さが理解できるようになり、その単調な日常の中に小さな喜びを見つけることを覚えたように思います。
 初めて旅に出る前に感じていた、退屈な日本に埋もれてしまうのではないかという、焦りや恐怖心は全く無くなっています。しかしながら、私の本質的なところは何も変わっていないようで、今は「旅に出たい。」という気持ちを押さえられなくなっています。
 「今、旅に出なければ一生後悔する。」
 その思いが日に日に強くなってきた今、僕がするべきことは1つ。
長々と書き連ねてしまいましたが、何を言いたいかと言えば始めの一言に戻ります。
 「また、旅に出る。」
 ということです。
 
 
出発
 
 出発の朝だというのに携帯電話の解約手続きを済ませていなかった。さらには通帳やカードの住所変更もしていない。それというのも、この1週間は飲み会が続いてしまい時間が無かったためだ。つまらない言い訳を書いてしまったが、実際には、単に事務処理能力に著しく欠けている駄目人間ということなのだろう。人間はそう簡単には変われない。
 大慌てで携帯ショップと銀行に行き事務処理を済ませてから成田空港へと向かい、17:00発のKORIAN AIRへ飛び乗った。フライト中の機内食は豪華なカルビ丼だった。
「今回も節約のため、可能な限り食パンとピーナツバターで走る。」
 そう決めていた僕にとって、味の付いた牛肉を次に食すのはいつになるか分からない。これでもかというほど、ゆっくりと味わって食べながら、これから始まる素晴らしい自転車旅を想像していた。
 この先、実際に起こってしまう想像を絶する過酷な出来事など思い描けるはずも無く、呑気にカルビの深い味わいを堪能するのだった。
 
 
旅の始まり
 
 空港の税関では何の問題も無くワーキングホリデーのビザを手に入れることができた。オーストラリア一周を目論んでいる僕にとっては、1年間滞在できるこのビザは絶対に必要なものだった。
 ところが、空港から街までのバスチケットを購入した時に問題が起こった。チケットを購入しバス内で出発を待っている時に、何気なく初めて見るオーストラリアドルを数えていると20ドル足りていないことに気が付いた。オーストラリアに入国して使ったお金はバス代だけ。間違いようがない。大急ぎでチケット売り場のオヤジの所へ戻り説明するが、
「お釣りは渡した。」
 の一点張りだ。
「なんてこった!」
 故意に間違えたのか、たまたま間違えたのか分からないが、今後は注意が必要だ。
 
 シドニーに到着した翌日、900ドルの自転車がバーゲンにより499ドルで売られていたので購入した。今回は前後輪にギヤが付いているので、カナダの時よりは楽になるだろう。車輪のサイズも前回より少し大きくて細い。マウンテンバイクとロードの中間くらいのサイズ。“シクロバイク”という種類であることを教えて貰ったのは、旅のずっと後になってからだった。そして、このシクロバイクが中南米で問題となり頭を悩ますことになるのだが、それはまだまだずっと後の話だ。
 地図、それと目覚まし時計も購入した。それというのも今朝、ホテルのチェックアウト時間に起きられなくて怒られたからである。駄目人間はそう簡単には変われないことを重々承知しているが、せめて起きる努力はしてみようということだ。
 
 次の日の朝、5月27日。6時22分。
「今日という日は 残りの人生の 最初の1日。」
 大好きなリチャード・バックの言葉を思い出していた。
 今まさに、この一瞬は僕の残りの人生の最初の一瞬だ。ゆっくりとペダルを踏みこむと、タイヤが回り始める。2年ぶりに荷物を積んだ自転車を漕ぐと、その重さにびっくりしてしまう。転倒しないよう自転車のバランスをとるのに必死だ。
「自転車漕ぐのって、こんなに大変だったっけ?」
 幸い早朝で交通量は殆ど無いし、天気も晴れている。左右にふらふらしながらの頼りない走行で、僕はシドニーのユースホステルを後にする。一生忘れられない旅が始まった。
 
 
北へ
 
 オーストラリアを反時計回りに一周するつもりなので、まずは北上を始める。余談になるが、自転車で一周する人は珍しいらしい。時間がかかりすぎるのと、どこかで夏がきてしまうのが理由だ。オゾンホールの下にあるこの国の砂漠に降り注ぐ直射日光は強烈だ。気温も上がりすぎて自転車には不向きなのだ。後に、自転車で世界旅行をする友人が何人か出来たが、皆は縦断か横断をしている。
「よくそんなことしたね。」
 と言われるのだが、この頃の僕は何も知らずに走り始めているのでしょうがない。
 
 話を出発初日に戻そう。
 ゆっくりとギヤの感触を確認しながら走行し、どうにか目的地のTerrigal(テリガル)に到着。ビーチで食事をとりながらのんびりと過ごしていると、小綺麗な日本人女性が話しかけてきた。華奢な女性で、とても自分から積極的に話しかけてくるようなタイプには見えない。余程、僕が魅力的に見えたのであろう。伏し目がちに小さな声で話す彼女と、とりとめのない会話が15分くらい続いたであろうか、
「旅の初日に、このようなロマンスが待っているなんて……。僕はこれからオーストラリアを一周しなければならない。彼女は待ってくれるのだろうか……。」
 そんなことを考えていると彼女はおもむろに、
「実は私、○○○の○○というのをやっているのですけど……。」
 と言って、何やらパンフレットを取り出して、彼女の信じる宗教の話を始め出した。
 
「…………。」
 まさか、オーストラリアまで来て宗教の勧誘に会うなんて!これ日本でも会うやつ!!それも走り始めた初日に!!
 
前途多難な旅の始まりだった。
 
 Croki(クロキ)という町のキャンプ場でのことだ。受付のおばあちゃんは、妙にのんびりとした人だった。キャンプ場の支払いを済ませたのだが、いつまで待ってもお釣りを渡してくれない。
「まただよ…。今日は2度目だ…。」
 この日、昼間に立ち寄ったガソリンスタンドで、コーラとスポーツドリンクとクッキーを買った。全部で10.3ドル。20ドルを出して沢山お釣りをもらうのは悪いと思い、20ドル紙幣と、手持ちの40セントを渡した。20.4-10.3=10.1が正解である。スタンドのオヤジは10セントだけよこしてきやがった。
「これで分かった。空港のオヤジも確信犯だ。」
 残りの10ドルは後からきちんと貰ったのでそれで良しとして、今後もお釣りにだけは要注意だ。
 
 5日目の朝、後輪の空気が完全に抜けていた。カナダ自転車横断の時に1度もパンクしなかった僕にとって、これが初めてのパンク修理となる。出発前に”100円ショップで買った空気入れ”は使えなかった。1人で悪戦苦闘していると、キャンプ場で知り合ったおじいさんが見かねて手伝ってくれた。チューブを新しい物に交換し、車用の空気入れで空気を入れることで、どうにか修理完了し出発する。
 
(当時の日記を読み返して思うのだが、「100円ショップの空気入れ」ってなんだったのだろう?まさか、虫ゴム用の空気入れをオーストラリアに持って行っていたのであろうか?どうかしているとしか言い様がない。しかし当時の自分であれば、あり得ないことはない。さらに、この後数日間に渡って、何度も何度もパンクを繰り返している。そう、毎回チューブの修理だけを行って、タイヤ側に突き刺さっているガラス等の根本原因を、ずっと放っておいたためだ。無知というよりも無謀だ。砂漠の真ん中だったら死んでいるだろう。)
 
 
クイーンズランド州
 
 この国の東海岸には大きな街がいくつもあり、かなりの数の日本人がいる。Brisbane(ブリスベン)もそんな街の1つだ。この街の自転車屋で、ついに前輪の両側に取り付けるバックを購入することに決める。フレームが取り寄せになるとのことで、この街で数日間の足止めとなっていた。旅を始めてから毎日晴天で過ごしやすい日々が続いているのだが、ここでは特に見たい物もやりたいことも無く暇を持て余していた。
 そんなある日、ドミトリー(大部屋)に日本人女性がやって来た。ベテラン旅行者風の彼女に、常々疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「この国の人達って、毎回お釣りをごまかそうとしますよね?」
 ちょっと怒りながら、半分笑いながらの僕の質問を聞いて、彼女はケタケタと笑い、
「あれは、お釣りをごまかそうとしているのでは無くて、本当におつりが分からないのよ。」
 と答えた。
「!!!!!!マジか!!」
 そんなことがあり得るのだろうか?考えられない!!
 
 足止めのため連泊となった僕は試してみることにした。もう1泊分の宿泊料16ドルを、20ドル紙幣1枚と1ドル硬貨1枚の21ドルで支払い、5ドル紙幣のお釣りを貰おうという、壮大な実験だ。
 
 21ドルを受け取った受付のお姉さんの左手が、コインの方に伸び、コインを何枚か手に持ち、そして戻す、再びコインを手に持ち、そして戻す……。
(始まった!いつもの動き。ごまかそうとしているに違いない動きだ!)
 冗談抜きで考えている様子だ。10秒くらいして、ちゃんと5ドル紙幣でお釣りを返してくれてホッとする。
 
(若い人は大丈夫だと思うけど、老人の時はこれからも注意しよう。)
 
 余談ではあるが、この後もお釣りと、どんぶり勘定との戦いは何度もおこることになる。そして、ある時点から自分のマインドが変わっていることに気が付くのだった。
「この国の人達は、細かいことを気にしすぎる日本人とは違う。小さいことを気にしないおおらかな人達なのだ。」
 様々な国の人に出会う旅をしたけれど、結局自分はオーストラリアとニュージーランドの人達が1番好きだ。てきとうな人(おおらかな人?)が本当に多いけど、悪い人に会ったことがない。気が付けば自分もおおらかな人間となり、それが原因かどうかは皆目見当もつかないのではあるが、帰国後は日本に馴染めないでいる。
 
 
ケアンズ
 
 オーストラリアの人口、約2500万人の殆どが海に近い外周に住んでいる。人口の80%くらいは東海岸であると聞いたことがある。内陸は広大な砂漠が広がるだけ。地図上に町はあるが、カナダのこともある。信用はできない。廃墟やガソリンスタンドのみの可能性が非常に高いのだ。タウンズビルの町から西へと伸びる道を使って、砂漠に突入するつもりでいたが、予定を少し変更した。このまま北上して大観光地Cairns(ケアンズ)を目指す。ケアンズに行ってみたかったというのもあるが、一緒に砂漠を走ってくれる日本人を探してみようと思ったのだ。簡単にいうと、
「1人で砂漠を走ることにびびったのだ。」


 ケアンズの街は世界中から集まった旅行者でごった返していた。暖かい気候と美しい海があり、ダイビングを始めとして、様々なアクティビティーが充実しており観光業が盛んだ。街の広場にラグーンと呼ばれる美しい人工の浅瀬があり、1日を通して観光客達の心を癒やしている。この街で短期の英語学校に通っているアジア人学生や、ワーキングホリデービザを持ってアルバイトをしている日本人も数多くいる。要するに、そんな日本人に声を掛けてみようという試みだ。
 
 街の安宿に到着したその日、ひろさんという日本人男性と出会って意気投合した。彼はメルボルンの大学に留学して陶芸を学んでおり、今は学校の休みを利用してケアンズに遊びに来ているとのことだった。
「お、オーストラリアで陶芸ですか?」
思わず聞いてしまった。失礼な質問だったと思うが、怒られることは無かった。
 余程の強い思いがあってこの道を選んだのだろう。世の中は広い。自分が想像したこともないような、人生の選択をする人もいるのだ。
 類い希な行動力を持っているだけで無く、博識な男で英語も話す。何よりもオーストラリアに慣れており、笑顔を絶やすことの無い彼と一緒にいるのは居心地が良く、ケアンズ滞在中いつも一緒に行動していた。
 彼から色々な情報を教えてもらい、「同士求む」と書いたメッセージを日本人学生が集まりやすいところに貼り、1週間待ってみることにした。果たして僕と一緒に砂漠に突入してくれる酔狂な日本人はあらわれるのだろうか?
 
 翌日、ひろさんと街を散策していると、アンティークの着物屋を見つけた。珍しい所に珍しいお店があるものだ。店内には一体誰が着るのだろうと真面目に悩んでしまいそうな、カラフルな着物が所狭しと飾られている。そして僕は出会ってしまった。一目惚れと言っても過言ではないだろう。甚平(じんべい)である。昔の日本人が夏の夜とかに着ていたやつだ。存在は知っていたが実際手に取って見るのは初めての、この純和風な衣服に心を奪われてしまった。長袖長ズボンでありながら、素材はペラペラで殆ど重さを感じない、ゆったりとした袖(そで)と裾(すそ)と襟回り。
「砂漠で活動するのにスーツは適している。」
 って、昔マンガ本で読んだことがある。ような気がする……。
「甚平はスーツの機能を超える!これで砂漠を越えることができる!」
 そう確信し、甚平(上下で59ドル)を購入した。
 
 学生やツアー情報が沢山集まる建物の一角に、自由に使えるテーブルと椅子がある。この一週間、毎日4時から4時15分の間、緑色のヘルメットを持って同じ椅子に座り続けた。貼り紙に、1週間、毎日、この時間、この場所で待つと記していたからだ。貼り紙の内容が普通では無いだけに、誰1人として話し掛けてきた人はいなかった。それどころか、周囲の人達は僕と目を合わさないようにしているように感じた。
 そしてついに、最終日の4時15分が過ぎた。途中から、いや最初からこんなバカな事に付き合ってくれる人がいるなんて思っていなかった。だから何てことはない。1人で旅を続けるだけのことだ。これまでだって、ずっとそうだったじゃないか。
 その後、その椅子に座ったまま旅の間毎日書き続けている日記を書いていると、4時30分少し前に日本人男性が話し掛けてきた。
「自転車でシドニーから来た人ですか?」
 声のした方を振り向くと、日に焼けた日本人男性が立っていた。タイテンと名乗るその男性は、背はそれ程高くはないが筋肉質で身が詰まっていて、運動神経の良さそうな印象を受ける。少しだけ雑談しただけで、彼は僕と一緒に砂漠に向かってくれると言ってくれた。さらに、彼の友人ヤジーさんが1週間後に英語学校を卒業するので、3人で一緒に行くことを提案してくれたのだった。
 こうして僕らは1週間後に出発することに決めた。
 
 ケアンズの街で良くも悪くも1週間の足止めとなったので、チャリダー(自転車乗り)であることを一旦忘れて、普通の観光客として遊ぶことにした。
 
 ある日、ひろさんや、この街で知り合った友人と一緒にダイビングに行くことにした。せっかくだからリゾート気分を満喫してしまおうという考えだ。実は柄にもなくダイビングが好きだったりする。タイやエジプトでは、かなりの本数を潜ったりもしている本格的(?)なダイバーだ。オーストラリアの物価は高いが、正直に言うとグレートバリアリーフで潜るのは夢で、このチャンスを逃したくは無かった。
 
 ダイビング当日、空は青く、気温も高く絶好のダイビング日和だった。大勢のツアー客を乗せたボートはそれなりに大きく、たいして揺れることはなかった。だがしかし、ダイビング前に嘔吐する。船に弱い僕は「ワンダイブ、ワンリバース」が基本だ。周囲を見回しても誰も吐いてないところを見ると、僕の弱さは世界レベルだと否応なしに実感させられてしまう。
 ガイドの誘導は的確で、1本目のダイブから巨大なナポレオンフィッシュや多種類のクマノミを見ることができた。グレートバリアリーフと言えば「クマノミ」と言うのは世界基準だ。そうディズニーが決めている。
 2本目のポイントへの移動中に嘔吐する。「ワンダイブ、ワンリバース」を忠実に守る男だ。Caves(洞窟)というそのポイントには、名前が表しているように洞窟があった。
「まさか、こんな狭いとこに入りはしないだろう。」
 という僕の予想を見事に裏切り、ガイドは小さな穴へと入っていった。2人目、3人目がガイドに続いて入っていくと、僅かな明かりも無くなり真っ暗闇の中を進まざるを得なくなってしまった。ようやく洞窟を抜けると、1人のダイバーの足にフィンが付いて無かった。洞窟の中に落としてきたのだ。それを見て皆が一斉に笑う。そうすると、呼吸が乱れて苦しくなるので、皆が必死で笑いを堪えるのだった。
 水深5mの安全停止中(潜水病防止のため暫くの間停止する)にウミガメが近づいてきて、皆で記念撮影を行った。
 忘れられない、最高に楽しいダイビングとなったのだが、1つ気になることもあった。かなりの珊瑚が死んでいたと思う。お金を払ってもっと沖へ行けば違うのかもしれないけど、どうなのだろう?人間が海を汚したからだろうか?それとも温暖化が原因だろうか?
 
 ケアンズ滞在が長くなるにつれて、どんどん日本人と韓国人の友達が増えてくる。そんな中にクリちゃんという日本人女性がいた。クリちゃんは美人で、細くてすらっとした姿はまるでモデルみたいだ。腰まである長い黒髪をいつも上手にアップして頭の上で束ねている。そんなクリちゃんのことを好きな日本人や韓国人の男性達が結構いて、いつも人気者だ。さっぱりした物言いで、僕よりもよっぽど男らしいが、ちょっとヤンキー臭がしないことも無い。
 さて、そんなクリちゃんだが2ヶ月後にパプアニューギニアで行われる“ブーゲンビル慰霊祭”なる慰霊祭において、巫女さんになるためにパプアニューギニアへ向かうという。いったいどうやってその情報を得て、そして巫女になりたいと思ったのだろうか?
 世の中は広い。自分が想像したこともないような、人生の選択をする人もいるのだ。
 
 さて、そろそろ話を自転車旅に戻そう。出発を数日後に控えた我々3人はミーティングを行うことにした。話し合いの末、3人でユニホームを揃える事に決める。要するに僕が着ている甚平を2人にも購入してもらい、3人揃って甚平を着て砂漠を越えようというのだ。
「怪しすぎるだろ!」
 という意見は、何故か誰からも出なかった。
 それから、3人でアウトドアショップに行って必要な道具を揃える。僕はガス缶を購入した。ついに食パンとピーナツバターの生活を卒業する事に決めたのである。ケアンズ滞在中に、ひろさんから、
「この国では普通にカリフォルニア米というお米が売られていて、味は日本米と殆ど変わらないよ。」
 と教えてもらったことが大きな理由だった。簡単に鍋で炊けることも教えてもらった。
 最後にナイトマーケットで、おもちゃのディジュリドゥ(オーストラリアの原住民、アボリジニの方々の楽器で、中が空洞になっている筒状のユーカリの木。口で吹いて音を出す。)を購入した。後日、これが思いもよらぬ使用方法で自転車旅の役に立つこととなる。
 
 
ケアンズ出発
 
 出発の朝は快晴だった。約束の時間前に待ち合わせ場所のラグーンに行くと、そこには既にタイテンくんと大勢の友達が集まって写真を撮っていた。ラグーンはこの街を象徴する場所の一つで、スタート地点とすることに誰も異論はなかった。しばらくしてヤジーさんも到着。3人で甚平を着て記念撮影を行う。それにしても友人の多い2人だ。
 僕は昔から友達が少ない。でたらめな人間であり人望が無い事は重々承知しているが、それ以上に他人に関わるのがちょっと苦手で、1人で行動することを好む性格が原因かもしれない。そんな僕が3人で一緒に走ろうというのだ。不安が無いわけでは無いが……
 
「まぁ、どうにかなるでしょ。」
 でたらめ人間のマインドはこんなものだ。
 
 大勢に見送られながら僕たちは、快晴に浮かぶ白雲が映り込むラグーンを後にした。
 まずは一旦南を目指すことになる。走り始めてすぐに気づいたのだが、2人は数日前まで英語学校に通っていただけあって荷物が多く、明らかに重そうだ。しかもタイヤのサイズが少し小さいこともあり、なかなかスピードが出ない。おまけに初日から向かい風。予定通り40km走ってキャンプ場に泊まることにするが、2人はちょっと疲れているように見える。50km先に郵便局があるようなので、そこから荷物を日本に送り返す事に決めた。

ケアンズ出発の日


 翌朝、ポツポツと雨が降る中出発する。
「ちょっと自転車を交換して走ってみましょう。」
 今後も3人で走ることを考えると、お互いの自転車のスピードを理解しておきたいと考えたからだ。
 僕とタイテンくんが自転車を交換して走っている時、雨が土砂降りになってきた。眼鏡に水滴がついて視界がぼやける。前を走るタイテンくんが、さっと何かを避けたのだが、近くを走りすぎていて咄嗟に避ける余裕が全く無かった。
「死んだ。」
 と思った。正直に言って、その瞬間、確実に、死んだと思った。ほんの一瞬のことだったけれど、生まれてこの方感じたことの無い恐怖を全身で感じたのが忘れられない。ハンドルを切る余裕の無いまま、舗装状態が非常に悪い路面に突入し、タイヤが滑り車道側に派手にこけてしまったのだ。経験したことの無いスピードで視界に地面が近づき、次の瞬間激痛に襲われた。後方を走行中だったヤジーさんも僕を避けようとして転倒。たまたま車が走ってなかったから2人とも死なずに済んだだけだ。九死に一生を得たが、ヤジーさんは肘を、僕は肘と膝を派手に擦りむいて血が出ている。
 雨は激しく音を立てて、ボロボロになった僕たちを1日中打ち続けた。
 
 その後は各々の自転車に戻ることになった。慣れない自転車は走りにくいし、何よりも他人の自転車で転倒して壊した場合に責任が持てない。
 
 
Townsville(タウンズビル)にて
 
 ケアンズを出て5日目、3人は始めの目的地であるタウンズビルに到着した。人口13万人の小さな町だが、クイーンズランド州の州都ブリスベン以北で一番大きな街だ。これと言って何かあるわけでは無いが、一通り何でもある町といったところだろう。ついに、ここから西へ進み砂漠へと入って行くのだが、ヤジーさんが体調不良のためもう1泊することになる。
 朝食時ヤジーさんが、
「突然ですけど、自分はここでやめようと思います。」
 と言った。3人旅のスタートの時、ラグーンの前で僕は2人に、
「途中で別の方向に行きたくなったら、いつでも別れましょう。でも、同じ方向に向かう間は、是非一緒に行きましょう。」
 と告げている。今日がまさしく、その時だった。南へ向かうという彼に、できる限りのことをしてあげるだけだ。パンク修理と自転車のメンテナンスの仕方、そして南の情報を教えてあげた。たったそれだけが、彼のためにしてあげられる全てだった。
 
「5日間楽しかったです。ヤジーさん。南への旅、楽しんで下さい!!!」
 
 
砂漠へ
 
 愕然とした。ガソリンスタンドが無い!休憩所が無い!日差しが強い!東海岸の1号線から、西へ伸びる78号線に入った途端に何もかもが変わってしまった。休憩できるような日陰が見当たらないのが一番きつい。オーストラリアの内陸には、広大な砂漠を始め岩石地帯や草原もあり、総じてアウトバックという呼び方をされている。ざっくりしているが、外周の海岸地域から内陸に入ればアウトバックと言っても良いのであろう。
 
 西に向かって走り始めて3日目。いよいよ本格的なアウトバックが始まろうという頃、地平線の向こうに小さく自転車が見える。こちらに近づいて来ていることが分かると、僕たちは自転車を降りてすれ違うのを待った。自転車の男の名は「ヒロ」、66歳のベルギー人。(66歳ってすごすぎる!)渋いおやじだ。砂漠を40日間走って来たという男は、西を指差し、
「行くのか?」
 と聞いてきた。返事は決まっている。
「YES。」
 だ。彼は我々の装備を見渡し、
「水はそれだけか?足らねえな。」
 ショーン・コネリー風のおやじは、渋い声でそう言った。彼は毎日8Lの水を運んでいると言って装備を見せてくれた。
(8Lって重すぎるって!!!)
 と思いつつも、この先を侮るなという忠告だと解釈して、世間話を続けた。最後に彼は信じられない事を話し始めた。
「この先のスチュワート・ハイウェイを日本人の男性がキャリアーを引きながら歩いているぜ。俺は会ったよ。」
 スチュワート・ハイウェイというのはオーストラリアの真ん中を縦断している道で、北のDarwin(ダーウイン)と南のAdelaide(アデレード)を繋いでいる道だ。真ん中にエアーズロックがあるので、我々も走る予定でいる。キャリアーというのはどうやら日本人の言うところのリヤカーであろうか。
 それにしてもすごすぎる。何をどう考えたらオーストラリアを歩いて縦断しようという考えに至るのか?とにかく会ってみたいが、この巨大なオーストラリアで会えるのだろうか?
 そして僕とタイテンくんも砂漠を越えた頃には、ヒロみたいな“くたくた”の渋いおやじになっているのだろうか?

 
別世界とクリちゃん
 
 西へ向かって走り始めてから5日目。温度計を持ってないので確かなことは分からないが、7月(日本の四季とは反対なので冬)のアウトバック(荒野)の朝は氷点下、もしくはそれに近い温度になっていると思う。ダウンジャケットを着てテントと荷物をパッキングするが、あまりの寒さで作業ははかどらない。やっとのことで荷物を自転車に積み込み走り始める。
 出発してすぐに2人は追い風であることに気が付く。そう言えば、ヒロは
「毎日、毎日向かい風だ。」
 と、しきりに愚痴を言っていた。
 道は荒野の中を真っ直ぐに伸びており、空には雲一つ無い。オーストラリアの広大さを全身に感じながら、追い風に乗り快調に飛ばす。時速は23kmくらいだが、これまでに比べれば充分に早い。
 朝から吹いている風は昼前頃に、いよいよ強風となり軽くペダルを漕ぐだけで時速30kmを超え始める。
「久々の“別世界”だ。」
 全く疲れることなく時速30kmをキープできるこの状態を“別世界”と呼んでいる。これを一度体験するとやみつきになる。とはいえ、滅多にない奇跡的な幸運だ。
 
 予定時間を大きく短縮して目的地に到着した我々は、見慣れた後ろ姿を見付けた。近づいて見ると間違いない、
「クリちゃん?パプアニューギニアはどうしたの?」
 僕たちは近くの公園で一緒に昼食をとりながら、彼女に何が起こって今ここにいるのかを聞くことにした。
 
 彼女は我々がケアンズを出た後すぐに、パプアニューギニアの話が取り消しになったそうだ。それから宿のオーナーと宿泊者の喧嘩に巻き込まれて宿を追い出されている。今は街でリフトの貼り紙を見付けて、車で旅をしている最中とのことだった。リフトというのは、この国の旅行手段の1つとして定着している。車の持ち主が、同じ方向に旅する人を募集して車に乗せてあげるのだが、ガソリン代や生活費を折半するのが通常だと思う。集まった皆で安い車を買ってから旅を始めたりすることもあるようだ。そんな訳で、アウトバックを走っている車は、オーストラリアを何周もしたようなボロボロの車が多い。それと、定年退職した老夫婦がキャラバンカーで旅をしているのをよく見かける。
 何にせよ、人生、明日には何が起こるか分からない。彼女は本人が気付かないうちに、想像していなかった方向へと、人生の舵を切り始めたのであろう。
 
「予想もしていなかった場所で、予想もしていない人に出会う。」
 これだから旅は面白い!!

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