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『情況』を支持する声明(仮)/二〇二四年一〇月二〇日(予定)

二六八四年〇九月一八日(予定)
二〇二四年一〇月二〇日(予定)


 『情況』誌は創刊以来「変革のための総合誌」として、多くの読者・寄稿者を同期し接続させてきた。そして二〇二二年春号「キャンセルカルチャー特集」では、「変革」を志向する多くの読者たちにとってもはや当たり前だった同じ意見や党派性に偏りがちな紙面と、反差別運動の禁忌に自ら切り込んで、圧倒的な論壇性を示したほか、商業誌としての成功に向けても舵を切った。そして最近二〇二四年夏号「トランスジェンダー特集」では、広告の段階でその内容について多くの批判を含めた反響を受け、また発行後は、既存のトランスジェンダリズムの論者達が議論を拒み続けた「ノーディベート」という態度を突破してみせたことは、特に偉大な功績と言わざるをえない。
 こうした事績を踏まえ、『情況』の読者・寄稿者である我々は、現在の編集方針に対する熱烈なる賛成の意思と、その所信を公表することにした。かつて全共闘運動にあって、独立したジャーナリズム・理論誌としての所在を見せた同紙の活躍が、新たに第六期編集部体制に入り佳境を迎えつつある今、その読者・寄稿者である我々に求められるのは、全共闘運動に代わる変革の主体性であろう。

一、差別問題とどう向き合うか

 社会を変革する意志の下に集まった我々は、差別と立ち向かわなければならず、差別とどう戦うかを議論しなければならない。もちろん差別的な言説は掲載しない方がいいが、各個の掲載や人物の発言が差別かどうか判断しうる超越論的な視座は存在せず、論者各自の判断しかありえない。また差別には共感〈快─不快〉ではなく、正義〈善─悪〉で反対しなければならない。共同体的な感情や情緒は共有できないからである。そのため、論者たちはまず何が差別かをめぐって議論しなければならない。
 そしてキャンセルカルチャーや「ノーディベート」的な差別批判者とそれに対する批判者とは、両者ともに反差別を前提にしつつも、意味解釈をめぐる主導権の闘争を行っている。何が差別であるかについて明確な基準が存在しないため、そもそも定義が潜在的な争点であるにもかかわらず、キャンセルカルチャーや「ノーディベート」の方針によって議論が叶わなかった経緯がある。しかし仮に炎上して焼失したり議論を封殺されたところで、いつか同じ議論が起きよう。
 また、キャンセルカルチャーや「ノーディベート」の問題を、左右の対立とみる向きもあるようだが、キャンセルカルチャーはイデオロギーを問わず存在するし、反差別や社会変革といった重要な提起は、左右の応酬に回収されるべきではない。

 我々『情況』読者・寄稿者は反差別のためにキャンセルカルチャーや「ノーディベート」に反対し、反差別の在り方を議論する。

二、擬制としての「言論の自由」の設定

 差別解消のために、何が差別でないかについて論じる『情況』誌の掲載判断は、最終的に編集長が行うことになるが、『情況』誌は今回の二〇二四年夏号の「特集によせて」によれば、その編集長の判断にはさらなる批判が寄せられることや、司法判断に挑戦する政治的行動などが起きうることも想定しており、むしろ後続の論争自体が「言論の自由」という虚構を担保するだろう、という再帰的な立場をしめす。
 だが「言論の自由」が十全なかたちで存在すると言明できる超越論的な立場は存在しない。さらに言論は何かが禁止されているからこそ、それ以外の領域が「自由」でありうる。例えば言論の自由を保障するには、言論の自由を否定する行動が社会的に禁止されてしかるべきだろう。そのため「言論の自由」は、禁止の領域をめぐって不断の闘争がなされることで支えられ、各々の発言者は禁止の領域を設定することによってはじめて議論に参加することができる。

 我々『情況』読者・寄稿者は「言論の自由」という擬制にしたがい、相互に禁止の領域を明示しつつその領域をめぐっても議論する。

三、「ノーディベート」は全体主義に転化する

『情況』誌は二〇二四年夏号の「特集によせて」で、当事者への寄り添いが損なわれるリスクがあるなら言論規制もやむなしとする「当事者優先」か、当事者を傷つけてしまう可能性があっても議論しなければならないとする「言論の自由」かで、後者の立場を取ると明言している。反差別や社会変革の主体たる我々も、それに賛意を示す。
 小さなサークルや当事者支援の共同体でなら「当事者優先」のための「ノーディベート」が必要なこともろうが、公共での議論では、共同体内の論理で異論を排除してしまう。そうなると、もはや社会の大部分を自分たちのイデオロギーに染めるしかなくなる。
 また「ノーディベート」の立場は、「当事者優先」のために、個人の些末な言動でさえ規範強化をもたらす権力行使であると解釈する傾向にある。しかし「いま・ここ」で自分の眼だけを信じ続けようとする態度は危険である。われわれの現実を虚構によって構造的に説明しようとするという俯瞰的な視座を失い、かえって全体主義に陥る。

 我々『情況』読者・寄稿者は、超越論的な視座が存在しないことを知りつつ同時に獲得することによって、特定のイデオロギーや集合に同一化し、全体主義を否定しつつ他者と議論するという認識を共有する。

四、討議に傷つく覚悟を持つ

 反差別闘争や社会変革の主体たちの開かれすぎた議論では、読者や論者が傷ついてしまう可能性が十分ありうる。多くの場合、他者との議論は異なる意見の持ち主からの批判にさらされるということであり、安全地帯は必ずしも設定できない。まして「変革のための総合誌」にあっては、そもそも何が差別であるかをめぐってさえ論戦が繰り広げられる。
 そのため、心に大きな傷を負っていたり、日常的にストレスを受けているような当事者が参加することはあまり推奨されない。そうでなくとも、この討議に自ら勇気に従って発言する覚悟ができるよりも前に発言するべきではないだろう。場合によっては精神状態をいたわるべき当事者たちをこうした討議から区分しておく必要もあるかもしれない。

 我々『情況』読者は、傷ついてもいい覚悟で読み、寄稿者はさらに傷ついてもいい覚悟で議論する。

五、自分の差別感情や加害性は反省する

 我々は反差別闘争や社会変革の主体とはいえ、議論で当事者を傷つけてしまう可能性があることを自覚しなければならない。
 例えば、トランスジェンダーを特集した論壇誌についての議論にもかかわらず、当事者たちにとって切実であるはずの性別の越境やその可能性などに話が進まず、専ら反差別闘争や社会変革の歴史的文脈についてのみを話題にしながら党派性を競ったりすることは、少なくとも当事者を置き去りにしかねない偏差と思われる。当然、ぼくがいまこの声明を手段に社会変革における立場を表明したり、あまつさえ署名を集めたりすることには、ある種の加害性を自覚するべきだろう。
 また、ごく私的な差別的感情や心理についても、自覚し次第向きあうべきである。
 ここで重要なのは、自分なり自分たちは、今現在残念ながら差別者ではあるかもしれないが、差別主義者であってはならないことである。他者を手段としてのみ扱うことにせよ差別的心理にせよ、目下の差別や加害性といった過ちは反省されていく必要がある。
 なぜなら、社会を変革する使命を自覚した我々にとって責任主体は自分であり、それこそ、既存の被害告発権力を無効化し、徐々に利他的な精神を培って社会を牽引していかなければならない、論壇の使命だからである。

 我々『情況』読者・寄稿者は、社会変革のための論壇を形成するため、自己に責任を負いつつ行動する。全体主義ではない社会変革は、訂正可能性に開かれていかなければならない。

 以上私たちは、輿論の形成・批評圏の再興・社会問題の評議など、イデオロギーを超えた社会変革と虚構の構築を目指す『情況』の編集方針が、理念を発展的に継承しつつあるものと判断し、より深く広く影響力を行使していくことを強く望む。
 もちろん余裕があり次第、我々読者や寄稿者自身もその運動に参加していく所存である。

読者・寄稿者有志


・署名は集めてみて一〇月二〇日にでも正式に発表したいなって思ってます
・でも一人でも発表します
・趣旨への賛同者で、文章直したい方からの相談は時間あればお聞きします
・日付。世界の時間が西ローマに基づくべきだと信じていないので和暦でとんがってますけど、社会を牽引するために西ローマ暦も載せます
・とりあえず個人のノートにあげちゃいましたが、載せる場所は考えた方がいいかも
・関係ないですがこれとは別にネオ幕府運動としてアキノリ将軍未満の考えも発表したい(時期は不明)
・註。五の「例えば~」の部分。何人かトランスの友達や知り合いを思い出しつつ、ごめん!!!ってなってる。いずれ革命を起こして彼らの越境を完遂する✊🔥🔥🔥
・註。五の「ごく私的な差別的感情や心理」。ほんとに私的だけど、ここで想起しているのは、アキノリ将軍未満にとっては、特に人種に関係なく、外国人や外国ルーツの女の子がちょっとかわいく見えてしまう傾向にあること。たぶん根底に差別意識があるので反省している。

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