深刻さを超えて、微笑んで見ることができるようになるために
無垢なる被害者
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践で何をしていくのか?
というなら、自我を直視することが私たちに求められていることだと言うことができます。
そこで私たちが学ばなければならないのは、自我が問題なのではないということです。
自我は悪しきものでも善きものでもなく、何でもありません。
自我はそもそもが非実在であり、無であるからです。
無であるものがどうして問題であり得るでしょうか。
では、問題は何なのか?
というなら、自我を信じていることが問題なのです。
つまり、自我にパワーを与えていることが問題なのだということです。
深刻になることによって自我にパワーを与えて、そして、「神からの分離」は起きたとリアルにさせていることが問題なのだということです。
ちなみに、だからといってコースの実践は、「深刻にならない」という訓練をしていくということでもありません。
「深刻にならない」という訓練ではなく、むしろ深刻になろうとする自分を自覚/認識していくことが、私たちがしていくことなのだということです。
ようするに、自我(の精神力動)を直視していく、ということです。
自我がしていること(自我の精神力動)を認識していくことが、私たちに求められているということです。
言い換えるならば、「自分で自分に行っているだけ」ということを認識していくことです。
私たちは、けっしてこの外側の世界から被害を被るような卑小でか弱き被害者なのではないのです。
自分の内側に正直になって観察するならば、あえて「無垢なる被害者」になろうとして、むしろ深刻になろうとしている自分が自覚/認識できるようになっていきます。
そう、
自分から平安を拒否しようとしている自分、
自分から平安を避けようとしている自分、
自分から平安の代わりに深刻になろうとしている自分、
を自覚/認識するようになるということです。
私たちが直視していく(フォーカスしていく)べきものとは、その深刻になりたがっている自分(自我)のほうなのです。
その自分は「平安を見ることができる」にもかかわらず、「深刻になる(動揺する)」ほうをあえて選んでいるのを、自覚/認識することができます。
それが、私たちの苦しみのすべての原因なのです。
そしてそれが、たった一つの問題であり、唯一の答えがあるところなわけです。
今や、私たちは自我と同一化してしまって、そのことが自覚/認識できなくなっています。
そして、自我の思考体系にただ突き動かされている状態になっています。
コースでは、その状態を「自我を教師としている」という言い方をします。
ですから、まずは、自我と同一化していることを自覚していくこと、そして、その自分を咎めずに見ていくことが、私たちがコースの実践でしていくことになります。
「自分は自我と同一化してしまっているし、その自分は自我を手放そうとはしないし、むしろ、握りしめている」と。
そういうことを認識して、しかも、その自分(自我)を裁くことなく咎めずに見ているとき、それが、聖霊の教師と共に自我を直視しているということです。
そうしていくことで、自覚されていない(無意識層の)自分、つまり、「心」の自分を自覚するようになっていきます。
その「心」の自分が何をしているか?
それに気づいているとき、それが正気から(聖霊と共に)見ているということであり、それが私たちがしていくことなのです。
そう、それだけが、私たちにできることです。
そうしていくならば、自分がいかに狂っているか!自分がいかに正気ではないか!も自覚できますし、だからこそ、もうそれをよしとはしない、となっていきます。
そしてさらに、その実践をし続けていくならば、やがて、自分から深刻になろうとしていることの愚かしさに対して、むしろ、微笑んで見ることができるようになるでしょう。