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カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい
所有することについて
私たちは、いったん「私のもの」というふうに所有してしまうと、今度は所有したものを「失う」ことを恐れるようになります。
私の体。
私の人生。
私の愛する人。
私の家族。
私の大切なもの。
私のお金。
私の考え。
私の価値観、、、などなど。
本当はそのすべてが自分のものではないにもかかわらず、「自分のもの」として錯覚してしまったならば、私たちはどうなるか?
というなら、
そうすると、もはやそれらを手放したくない、失いたくないというふうになるのは避けられません。
それが、誰もの中にある心の働き(自我の精神力動)です。
”カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。”
「返しなさい!それらすべてはあなたのものではないのですから」
と、そう言われても、返したくないわけです。
ようするに、いったん自分のものとなったものはけっして手放したくなくなるわけです。
たとえ、それが、本当は自分のものではない、と分かっていても、です。
実際に、私たちは非二元の教えやコース(奇跡のコース/奇跡講座)の教えを通して、
「それらすべてがあなたのものではない」
と教えられながらも、相も変わらず、それに対してNO(嫌だ)!と言い続けています。
もっといえば、「それらすべてが実在していないのだ」というふうに教わりながらも、それを素直に受け入れようとはしないわけです。
私が所有しているものは私のものだ、、、と主張したくなるわけです。
それが自我というものであり、それが、私たちだということです。
この世界にいる私たちみんな誰もがそういうことをしているのであり、その者たちで成り立っているのがこの世界というものです。
そのことが本当に理解されてくるならば、外側にそういうことをしている兄弟を見ても、驚くこともなければ、咎めることもなくなるといえましょう。
この世界にいる誰もが、そして、この自分もそうであるならば、咎める理由も、裁く理由もなくなります。
ようするに、私たちはそのような視点から眺めることが求められているということです。
それを、コースでは、「自我を咎めずに見る」という言い方をします。
それが「赦しのまなざし」というものであり、それがコース学習者の私たちが修得していくべきものだといえましょう。