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自分以外の誰かのせい、何かのせいにし続けるかぎり
被害者になることは、危険です
自分以外の誰かのせい、何かのせいにし続けるかぎり、私たちは被害者になり続けます。
それをし続けているかぎり、被害妄想の悪夢のストーリーから逃れることはけっしてないわけです。
被害者になることは、危険です。
なぜなら、攻撃し続けるからです。
妄想を抱く者たちはきわめて破壊的になり得る。それは、彼らが自分で自分を咎めたということを認識しないからである。(T-13.Ⅴ.4:1)
私たちが理解しなければならないのは、被害者になり続けること、つまりそれは攻撃、裁きをし続けるということであり、それは自分自身をただ傷つける「自己破壊的行為」以外の何ものでもない、ということです。
というのも、この世界の中で私たち誰もがそれをし続けているからです。
自分で自分を傷つけているのです。
そのことについてコースでは以下のように述べています。
あなたが見ている世界は、罪悪感により狂ってしまった者たちによる妄想的体系である。(T-13. in. 2:2)
誰かのせいや何かのせいにすること、それを「投影」と呼ぶわけですが、それが自己破壊的行為だと気づくならば、誰もそれをよしとはしないはずです。
それがやめられないのは、そのことに気づいていないからです。
それが、この世界に居る私たちです。
いわゆる、仏教でいうところの「無明」「無知」の状態になっているということです。
だからこそ、私たちはこの世界で何をしているのか?について学ぶ必要があるわけです。
それを教えてくれているスピリチュアリティ(霊性の道)が、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)だといえましょう。
私は自分が見ている世界の被害者ではない。(W-pI.31)
「被害者にならない」とは、「すべては自分で自分にこれを行っている」(T-27.Ⅷ10:1)ということを思い出すということです。
というのも、私たちは外側の世界を使ってこの世界の被害者になろうとしているからです。
そのようにして神のひとり子である本当の自分を攻撃し続けているのです。
ですから、私たちはこの世界の夢を使って自分で自分を攻撃し続けているということを自覚/認識していくことが求められているのです。
そのことを自覚/認識するようになるならば、私たちは攻撃、裁きをもはや正当化しなくなるだけでなく、自己破壊的行為の夢から目覚めていくことを強く望むようになるはずです。
そうなるとき、被害者になることをやめていくようになります。
外側の誰かや何かのせいにすることをしなくなるということです。
それが、投影に気づくということであり、それが私たちが赦しの実践を通して身に付けなければならないものであるわけです。
そうしていくなら、やがてこの世界を赦せるようになっていくだけでなく、自分の目の前の人生との闘いが終わっていくのを実感していくことでしょう。