コース学習の成果について
コースを学ぶ目的を見失わないように
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)学習の成果について、私たちはよく勘違いしてしまうということを知っておかねばなりません。
その成果は、心(内側)におけるものであって、外側の世界、つまり、形態とは一切関係がないのだということです。
たとえば、
「私はコースを学んで赦しの実践をしたおかげで、人生が好転しました」
といったふうに、コースの実践による成果と外側で起こる出来事を混同するコース学習者がけっこうおられたりするわけです。
コースの成果をそのように捉えることは、勘違いもはななだしいと言わざるを得ません。
加えて言えば、スピリチュアルな内的体験、至高体験、神秘体験、一瞥体験をしたりとか、そういったものをコースの学びの成果として捉えるべきではないということも知っておかなければなりません。
コースの学びが浅い段階においては、そういった勘違いはよくあるといえましょう。
コースは、学びの成果をそういうもので計ることはしないということを覚えておきましょう。
コースは、そういったものを目的としたスピリチュアリティ(霊性の道)ではまったくないということです。
むしろ、深い学びの段階へと進歩したコース学習者であるならば、どんな素晴らしい体験をしようとも、いくら覚醒体験、一瞥体験、悟り体験をしたとしても、そこに価値を置いたり、重要視したりはしません。
なぜなら、それがコースが目指しているゴールではないとはっきりと分かっているからです。
どんな体験をしようとも、それを体験している者などいないと分かってくるなら、それがどんなに素晴らしい体験であったとしても、果たしてそれを重要視したりするでしょうか。
要は、この世界を知覚しているかぎり、それを使って赦しを実践していくことに何ら変わりはないということです。
肉眼で見ている世界を知覚しているならば、そのこと自体がまだ夢の中にいるということであり、ならば、赦しの教師(正しい心/聖霊)と共にそれらを見ていくことをしていくだけです。
それが聖霊を教師とするということであり、それが私たちがしていくことです。
もちろん、学びのプロセスにおいて素晴らしい体験をすることもあります。
コースの学びのプロセスにおいては、ヴィジョンの体験、悟りの体験、一瞥体験、啓示体験といった体験をすることもあります。
そういった体験はもちろん素晴らしいものではあるわけですが、私たちはコースを学ぶ目的をそういうものにすり替えてしまうことがよくあるということに警戒すべきです。
つまり、「成果(結果)」を重要視してしまうことについては、十分に注意しておかねばならないということです。
このコースは、結果のコースではなく、原因についてのコースなのだということを忘れてはなりません。
もし、この世界での体験(結果)を重要視していくなら、つまり、成果(結果)を重要視していくなら、コースの本来の目的とはズレたものになっていくことは避けられないといえます。
ですから、私たちはコースを学ぶ目的を見失わないように、しっかりと怠らずにコースの思考体系を学び、そして根付かせていくことが大事であるといえましょう。
逆に、コースの思考体系をしっかり理解し、その理解に基づいた実践を通して愛や平安の体験に触れていく経験を重ねていくならば、コースの学びと実践はますますより妥協のないものへと促されていくことになるでしょう。
要約するならば、コースの学びのプロセスにおける霊的な体験について、それがどんな体験であろうと、それは学びの助けにはなることはあるかもしれませんが、それが重要ではないということです。
コースの学びのプロセスにおける体験は、学習者によって様々です。
覚えておかなければならないのは、コース学習者である私たちがしていくのは、愛を見つけ出そうとすることではなく、愛を妨げているものを見つけ出すことなのです。
コースでは、その手段を「赦し」と呼んでいます。
この世界(時間と空間)の中にいると知覚している私たちにとってすべきことはそれであり、それだけがこの世界での私たちの機能(役割)なのだということです。
学びの成果はどのようなものなのか?
「コース学習の成果について」というテーマについて話を戻します。
コースの学びが深化していくにつれて、その成果はどのようなものになっていくのか?
というなら、
自分とは何者なのか?自分はどこにいるのか?自分は何をしているのか?
そのことが、次第に自覚/認識されていくことになります。
そして、知覚もこれまで見ていたものとはまったく違う知覚(真の知覚/ヴィジョン)が開かれていきます。
そして、何よりも、ますます学びと実践に妥協がなくなっていくと言うことができるでしょう。
それが何を意味するのか?
というなら、
その学びと実践が、自然で当たり前のものになっていくということです。
言い換えるなら、日常の学びと実践に努力がなくなっていくという言い方もできます。
そして、毎瞬毎瞬が「学びの機会」「レッスン」であるという認識になっていくと言うことができるでしょう。