人生で経験していること、そしてこれから経験していくことはすでに決まっている
ドラマだと気づいている視点から見る
私たちが「人生」と呼んでいるものは、いったい何なのでしょう?
非二元(ノンデュアリティ)の教えでは、それを幻想だとか、あるいは、すでに撮り終えたドラマであるというふうに云っています。
そう、非二元のスピリチュアリティでは、それを「起きることが起きているだけ」というふうな言い方をしますし、コース(奇跡のコース/奇跡講座)では、それを「シナリオはすでに書かれている」というような表現をするわけです。
それが何を意味するのかというなら、たとえ人生でハッピーなことが起きたとしても、逆に、不幸なことが起きたとしても、いずれにせよ、私たちはすでに撮り終えたドラマを見ているにしかすぎないということです。
つまりは、私たちが人生で経験していること、そしてこれから経験していくことはすでに決まっていて、私たちはただシナリオどおりに演じているにすぎないということです。
そして、そこにはさまざまな個人性、個性といったものがあるかのように見えます。
でも、それらはすべて、夢を見ている自分が作り上げたキャラクターでしかないということです。
そう、そのすべてが非実在のストーリーにすぎないというのが、純粋な非二元の教えであるわけです。
コースでは、そのことに気づいていくことを「赦し」と呼んでいます。
そして、その「赦し」の視点からすべてを包含して見ることを、「聖霊と共に見ている」という言い方をします。
そう、コースではその知覚の仕方を思い出していくこと、そして修得していくことを目的としているということを覚えておきましょう。
「夢の主人公」から「夢を見ている者」へ
私たちはすでに撮り終えたドラマをこの世界の夢(時空)の外側からただ見ているだけなのだということです。
コースの赦しの実践を通して、そのことが体験的に理解されていきます。
そのような理解は「赦し」の実践によって、その知覚がもたらされることになります。
それが、聖霊の視点(ヴィジョン)であり、そこから見るならば、それが明らかになります。
しかし、私たちはその知覚をすっかり忘れてしまっています。
そして、夢の中の主人公と同一化してしまっています。
ですから、私たちはコースの学びと実践を通して、自分は「夢の主人公」ではなく、「夢を見ている者」であることを思い出していくことが求められているわけです。
その実践的な手段が、「赦し」です。
それは、「夢の主人公」から「夢を見ている者」へアイデンティティーをシフトしていく訓練なのだということを覚えてきましょう。
そう、コースの実践者として私たちにできることは、
赦しの視点からこの世界のドラマを見るのか?
それとも、
これまでのように自分が誰なのか?を忘れたままこの世界を生きるのか?
それだけが私たちにできることであり、それが私たちに与えられた唯一の機能なのだということです。
それをコースでは、
聖霊を教師とするのか?
それとも、
自我を教師とするのか?
というふうな言い方をしているわけです。
聖霊を教師としているときとは、どのような状態なのか?
というなら、
自分は「夢見ている者」として自覚しながら、自分は自ら出した夢を見ているだけで、自分で自分にこれを行っているだけ(T-27.Ⅷ.10:1)と気づいているときの状態を言います。
そこから人生のドラマを見るならば、本当の自分(真の自己)はこの世界から脅かされることなど一切ないのだと分かります。
つまり、人生で起きることとは一切関係のなく「神の平安」と共いることができることが明らかになるわけです。
それが真の赦しによってもたらされるものです。
一方、自我を教師としているとき、私たちは「夢の主人公」と同一化してしまいます。
そうなるならば、私たちは肉体の自分と同一化してしまい、自分で自分の人生をどうにかしなければならないという普段の知覚になってしまうわけです。
そうなるとき、もはや深刻さの中で生きることになります。
そこには、平安、幸せ、満たされるということがありません。
いつもストレスフル(ストレス・重圧・緊張)な状態でいることは免れません。
コースの学びと実践を通して、私たちはそういうことを自覚/認識するようになります。
そうなっていくにつれてコースの思考体系(形而上学)がますます根付いていくことになり、前者(聖霊の教師)のほうを選ぶようになっていくのです。
私たちは、毎瞬毎瞬、人生という夢のストーリーをどちらの教師と共に見ていくのかが問われている、ということが分かってくるわけです。
知覚しているものすべてが幻想であり、夢なわけです。
ただし、その夢を無意味に否定していくのが私たちがしていく実践ではありません。
その夢をどちらの見方で見ていくか?
それがいつも私たちに問われているのだということです。
自我に力(パワー)があるのではありません。
聖霊に力(パワー)があるのでもありません。
どちらに力(パワー)を与えるのか?
どちらに思い入れをするのか?
その決断の力(パワー)を自分は持っているのだということ思い出していくことが私たちに求められているのです。
コースの学びと実践を通して、その決断の力を完全に思い出すことが、私たちのゴールです。
決断の力を完全に思い出すとき、私たちは自我をもう二度と選択しない、つまり、「もう二度と分離を信じない」という決断をすることになります。
それを、コースでは「贖罪」と呼んでいます。
そうなるまで、このコースの学びと実践をしていくのだということです。
私たちはこの今もドラマを見続けているということを忘れてはなりません。
ドラマの中に入り込んだまま、そのことにまったく無自覚になっています。
コースは、そんな私たちのために提供されている霊性の道だということを忘れないようにしましょう。