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私たちが見ている世界について、私たちは何も分かっていない
この世界は夢は夢でも悪夢なのだということ
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びを通して、私たちは何を学んでいくのでしょう?
もちろん、「この世界は幻想である」「この世界は夢である」という概念がその中心的な教えであるわけです。
ただ、その教えは、非二元(ノンデュアリティ)を少しでもかじったことのある人であるならば誰だって知的に知っていることだといえましょう。
「この世界は幻想(夢)である」ということを教えている非二元のスピリチュアリティはコース以外にもたくさんあるわけです。
ただし、私たちが理解しなければならないことは、そのような非二元の教えをいくら知的に知ったとしても、それだけではまったく不十分なのだということです。
この世界の中に居ると信じている私たちにとっては、いくらそのことを知っていたとしてもまったく何の助けにもならないということです。
「この世界は幻想である」「この世界は夢である」ということだけであるなら、むしろ、この幻想世界(夢)から目覚めようとするどころか、この幻想世界を思いっきり楽しもうという考え方もあるわけです。
そして、実際に、そういった類いのことを謳っているコース・ティーチャーやノンデュアリティのスピーカーさんたちもおられたりします。
私たちが肉眼で知覚しているこの世界がどのような世界であるか?
その真実がまったく理解されていないどころか、すっかり隠されているわけです。
でも、コースが教えていることを理解するようになるならば、私たちはその真実を自覚/認識するようになります。
この世界は幻想は幻想でも、その幻想は天国とは対極の体験をするために作り出した悪夢なのだということが分かってきます。
天国の対極であるなら、それは地獄以外の何ものでもありません。
そのことについて、コースではこの世界を「飢えと渇きに苦しむ生き物たちが死ぬためにやってくる乾いた埃まみれの世界」(w-pⅡ.13.5:1)というふうにはっきりと描写していますし、さらに、以下のようにも述べています。
あなたが見ている世界は、罪悪感により狂ってしまった者たちによる妄想的体系である。 この世界をよく見なさい。そうすれば、その通りだとわかるだろう。なぜなら、世界は処罰の象徴であり、そこを統治しているかに見える法則はすべて、死の法則だからである。(T-13.In.2:2-4)
コースが教えていることの理解が深まっていくならば、そういうことがはっきりと認識されるようになっていくわけですが、
実際のところ、私たちはこの世界をそのようなものとしてはまったく認識していません。
この世界は悪夢であるにもかかわらず、むしろ、この世界の中に自分を満たしてくれるものがある、幸せにしてくれるものがあるとすら思っています。
そう、私たちは何もわかっていないのです。
それを、仏教では「無知」「無明」と呼んでいます。
コースのイエスは、私たちは今やそのような状態になってしまっていることを、まずは自覚/認識する必要があると教えてくれています。
そして、私たちが見ているこの世界について「悪夢」「地獄」「戦場」「屠殺場」といった言葉を用いて、コースのイエスは私たちをこの世界の夢から目覚める方向へと動機づけてくれていると言うことができます。
この世界の夢を見続けていることがいったいどういうことなのか?
そのことについて、私たちは理解しなければならないということです。
私たちが見ているこの世界は天国の対極として作られた悪夢でしかないということです。
「この世界には愛も希望もない、この世界では絶対に幸せになれない、この世界は悪夢をただ見ているだけ」という真実を本当に理解するならば、誰がこの世界の夢を見続けることを望むでしょうか?
無論、その真実を本当に理解するならば、誰だってもうこれ以上夢を見続けることをやめたい、この夢から目覚めたいと望むことでしょう。
自我はその真実をけっして教えることはありません。
その真実(真理)を隠すために、この世界、つまりこの夢(幻想)は機能しています。
私たちがその真実を認識するまでは、この世界はまさに希望のない世界であり、私たちは絶望し続けることになるだけだといえましょう。
そういう意味でいえば、もはや救いなど見出せないこの悪夢の中において、コースは希望の光だと言うことができるでしょう。