コースの学びのプロセスにおけるさまざまな霊的体験について
霊的体験は、コースでは重要視していません
コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の学びの実践のプロセスにおいて、私たちは内的な体験、それを霊的体験とも呼べるわけですが、そういったさまざまな体験を通して学んでいくことになります。
ときには素晴らしい愛と至福に触れていくような体験であったり、ヴィジョン(知覚のシフト)の体験であったり、悟りを一瞥するような体験であったりとさまざまな体験をしたりするわけです。
そういった霊的体験について、コース学習者の私たちはどのように捉えていけばいいのでしょう?
そのことについてワプニック博士は以下のように述べています。
「ときには素晴らしい愛と至福に触れていくような体験もしますが、そういったものにフォーカスしていく必要はありません。なぜなら、それらは何ら問題ではないからです。私たちがフォーカスしていくべきものは問題があるほうなのです」と。
ようするに、コースの観点から言うなら、そういった霊的体験を重要視することはしませんし、フォーカスしていく必要もないということです。
なぜなら、それらの体験は何ら問題ではないからだということです。
それらは重要視もしなければ、もちろん、特別視することもしません。
というのも、体験はあくまでも体験でしかないからです。
むしろ、そういった体験にフォーカスしてしまうならば、すべてが幻想(無)であるにもかかわらず、自分の体験をリアルなものにしてしまうことになります。
そう、どんな体験をしたか?ということについては、コースの歩みにおいてはあまり関係がないということです。
そうではなく、それらの体験による洞察や気づきのほう(内容)が重要なわけです。
真に目覚めている者は、「私はあんな体験をしました、こんな体験をしました、、、」ということなど主張したりなんかしないということです。
というのも、体験する「私」などいないと知っているからです。
たしかに、一元論のスピリチュアリティ、非二元のスピリチュアリティというその学びのプロセスにおいて劇的な霊的体験をすることはあります。
でも、それがどんな体験であろうと、たとえそれが悟りの体験であろうとも、体験はあくまでも幻想世界(結果の世界)の中の産物にしかすぎないということを覚えておきましょう。
コース学習者であるなら、なおさらです。
コースは、結果のコースではなく、原因についてのコースであるということを忘れてはなりません。
そのプロセスにおいては啓示的(普遍的)な体験もしたりもしますが、そういった体験はある程度の学びの指針にはなるとしても、実際のところ、コースの学びと実践をしていくということでは何の変わりないということです。
むしろ、そういった体験による気づきによって、なおさら、コースの学びと実践の必要性と重要性を実感するようになるでしょう。
それとは逆に、もしそういった体験にとらわれてしまうならば、学びのプロセスを遅らせることになりかねないということを覚えておくと良いでしょう。
というのも、私たちは、「コースを実践してこんな体験をしました、、、赦しを実践してこんな素晴らしい体験をしました、、、」というようなものに、ついフォーカスしてしまう傾向があります。
そういった体験を賛美したり、重要視したり、特別視したり、あるいは、そのような体験をした人を聖者扱いしたり、ティーチャーみたいに扱ったりと、私たち(自我)はそのようなことをついやってしまいがちです。
コースが教えていることについての理解が深まっていくなら、そういったことがいかに馬鹿げているか!あるいはそれがいかに幻想を実在化しているか!ということに気づくようになるわけですが、なにせ、コースの教えが根付いていくまではそういったものに惑わされてしまいます。
私たちは、素晴らしい体験や、そしてそんな体験をした人に、つい魅せられてしまうものです。
自我は、そういった体験やそういった体験をした人にフォーカスさせ、それによって、この世界を実在化させようとするのです。
それこそが自我のトリックであり、自我はむしろそういうものに魅了させることによって、私たちをこの幻想世界に縛り付けておこうとするのだということです。
私たちが覚えておかなければならないのは、たとえそれがいかに素晴らしい体験であったとしても、あるいは、自分の外側に目覚めた!と言っている人がいたとしても、すべてが自分が見ている夢(幻想)の中のストーリーにしかすぎないということです。
それが、純粋な非二元、一元論のスピリチュアリティの教えというものです。
この世界の夢を見続けているかぎり、私たちは学ばなければならないこと、訓練していかなければならないことがあるわけです。
コースの思考体系がしっかり根付いていくならば、私たちはそういった体験や、そういった体験をした人に対して、あるいは、自分自身がそのような体験をしたとしても、まったく惑わされなくなっていきます。
むしろ、それらをただ眺めている観察者となっていきます。
自分が何を体験したか?どんな体験をしたか?
あるいは、どんな人生体験をしてきたか?
それらの体験は幻想のストーリーの一篇にすぎないと分かっています。
むしろ、そういった体験に囚われることが「目覚め」の妨げになるのだと分かっているなら、誰がそういうものに価値を置いたりするでしょうか。
正気になっていくならば、つまり、目覚めていくならば、どんな素晴らしい体験をしようが、あるいはどんな神秘的、霊的体験をしようが、それらに意味や価値を与えることが自我に力(パワー)を与えることだと分かってくるわけで、それらをもはや重要視などしなくなっていくのは当然のことです。
体験は、たんに結果でしかありません。
すべてが等しく幻想であり、何の意味もありません。
そう、どんな素晴らしい体験をしようが、逆に、どんな好ましくない苦々しい体験をしようが、そういうこととは一切関係のない真の自己へとシフトしていくのが、このコースの霊性の道を歩んでいる私たちのゴールなのだということを忘れないようにしましょう。