「全一なる知覚」を修得(マスター)していかないかぎり、ワンネス(全一性)に目覚めていくことなどあり得ない
ワンネスに目覚めていくために私たちが必ず修得すべき知覚の仕方
コース(奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいく上で重要なことは、自分たちはすでに自我と同一化してしまっている、ということを認識する(認める)ことだといえます。
その認識なくしては、学びようがないといえます。
というのも、そこからしか学びははじまりませんし、実践はそこからしかはじまらないからです。
言い換えるなら、自分だと信じているその「自分」は自我であることを受け入れるところから、この学びと実践ははじまるといえましょう。
なにせ、真理においては個別性、特別性というものはないわけで、当然、個の自分など実在していないわけです。
そう、このコースは、自分だと思っている「自分」の無価値性、無意味性、非実在性を受け入れていく道なのだということです。
具体的には、その実践においては自分自身も非実在(自我)として包含していくことをしていきます。
ただし、そこで私たちがやってしまう誤りは、すべては実在していないとしながらも、「でも、自分は存在している」というふうにしてしまうことです。
「自分」は除外して、自分以外のその他を幻想として見ようとするわけです。
そうしてしまうならば、自分以外のすべてものから自分を除外していることになります。
つまり、それは全一性を否定しているということであり、つまり、分離を実在だとすることになるということです。
それに対して、イエス、聖霊はどのように見ているか?
というなら、
兄弟も、世界も、自分だと信じているこの「私」も含めて、どれもすべて全一に幻想として見ています。
何一つ除外することなく、すべてを包含して、すべてを全一に幻想として見ているといえます。
それは、すべてを等しく「同じ」として見ているということであり、コース学習者の私たちはそのように見ることが求められているのだということです。
なぜなら、それが神の国の全一性(ワンネス)を反映した知覚の仕方であるからです。
それを「全一なる知覚」と呼びますが、それなしに、真の赦しはあり得ないし、もちろん、贖罪もあり得ないということです。
贖罪とは、分離は一度も起こらなかった、というものだからです。
もし、そこに除外を設けたり、差異、除外、区別、順位、序列を見るとするなら、それは「分離は実在した」と見ているということです。
ですから、私たちは、全一なる知覚、つまり、すべてを「同じ」として見る知覚を訓練によって修得していかなければならないのだということです。
「全一なる知覚」を修得(マスター)していかないかぎり、ワンネス(全一性)に目覚めていくことなどあり得ないということです。
それは、私たちが必ず修得すべき知覚の仕方なのだということを肝に銘じておきましょう。
全一性を知覚できるようになるために
すべてを全一に同じ(自我/幻想)として見ていくとき、私たちは自我(幻想)を超越(俯瞰)した視座を見い出すようになります。
そう、自我を俯瞰したところから直視(観察)しているとき、それが、「聖霊と共に見ている」状態だといえます。
聖霊と共に自我を見ているその観察者の自分は、もはや自我とは同一化していません。
その自分は、全一にすべてを虚偽(幻想)として見ています。
その訓練をしていくにしたがって、その視座こそがイエス、聖霊の視点であることが、体験的に理解されていきます。
全一なる知覚、つまり、真の知覚というものが思い出されていくならば、それと同時に、これまで無自覚にずっと忘れ去られていた「心」の自分(決断の主体)が認識されるようになります。
それこそが真のアイデンティティーであることが自覚されていくということです。
そう、何のためにコースの「赦し」を実践していくのか?
と言うならば、その真の自己(真のアイデンティティー)を思い出すことが目的なのだということを覚えておきましょう。
その視座から見るとき、すべてが同じ、全一、というふうに見ることができますし、その視座こそが本来の私たちが居る場所であるということが明らかになっていきます。
その視座は、イエス、聖霊が見ている視点であり、「神から離れてなどいない」「分離は起きていない」ことが明らかになる視座だといえます。
その視座はどこにあるのか?
というなら、この世界の夢の外、時空の外であり、コースではそれを「戦場を超えたところ」(T-23.Ⅳ)と呼んでいますし、ノンデュアリティでは「いまここ」と呼んでいる場所です。
そう、私たちはコースの赦しの実践を通して、その場所に居る自分(真のアイデンティティー)を思い出していくことを目指しているのだということを覚えておくと良いでしょう。
全面的に、まるごと明け渡せるようになるために
ようするに、私たちがコースの実践を通してなしていくものとは、まさに、「知覚のシフト」であり、「アイデンティティーシフトのシフト」だと言うことができます。
その二つは同時になされていきます。
それがなされていくにしたがって、私たちはますます自分はこの世界に属する存在ではなく、自分はこの世界を超えた(時空を超えた)ところに居ることを認識するようになっていきます。
自分は肉体ではなく「心」であるということ、そして、その自分はこの世界の夢を作り出して、その夢を見ているだけなのだ、ということが自覚されていくということです。
しかも、その自分は間違った決断をしたまま自我と同一化していて、つまり、その自分は自我であるからこそ、実在しないのだということも自覚されていくということです。
それゆえ、私たちはその(偽の)自分を聖霊(正しい心)に明け渡すという訓練をしていくことになります。
実践的には、自我と同一化している自分が一歩退くことをしていきます。
つまりは、この自分と思っている「自分」の非実在を受け入れていくということです。
そのとき、正しい心である本当(正気)の自分が解離の壁を超えて流れ込んでくることになります。
それが、明け渡す、一歩下がる、一歩退くという実践であり、つまりは、それが、自分の非実在性、無意味性、無価値性を受け入れる訓練だといえます。
それは、全面的に、完全に、まるごと明け渡せるようになるまで、その訓練は続きます。
そう、それは、「全面的に、まるごと明け渡す」というものでなければならないということです。
それが、「聖霊にゆだねる」ということの本当の意味であり、それこそが、コース学習者である私たちが修得しなければならないものであるということを知っておきましょう。