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もっとも高尚な考え(想念)とは?


最も高尚な考え

別の見方があるかもしれない。

私は、なにか間違っているにちがいない。

私は、本当はこの私ではないのかもしれない。

そのように考えていくことが、(自我と同一化してしまっている私たちにとって、)可能な最も高尚な考えであるとコースのイエスは教えてくれています。

さらにいえば、そのように考えていくことが コース学習者である私たちに求められていることだといえます。


別の知覚の仕方があるという信念は、自我の思考に可能な最も高尚な考えである。なぜなら、その考えには、自我は自己ではないという認識が密かに含まれているからである。(T-4.Ⅱ.4:10-11)

奇跡講座/中央アート出版社


つまりは、私たちはすでに自我になっている(自我と同化している)ということです。

さらにいえば、その自分たちが抱く考え(想念)のすべてが自我の狂気の思考体系なのだということです。

それが意味するのは、その思考体系のままでどんなに考えたとしても、そこには解決法や答えはけっしてないということです。

そんな私たちに対してコースのイエスは、「別の知覚の仕方(見方)がある」という考え(想念)こそがもっとも高尚な考え(想念)だと教えてくれているということです。

実践的には、自分のものの見方、考え方、知覚しているものを脇に置くことが、私たちがしていくことだということです。

それは、自分の考え、信念、知覚のすべてを疑っていくということであり、自分だと信じている自分も疑っていくということです。

ようするに、自分が見ている、聞いている、感じている、考えている、知覚しているもの、そのすべてを疑問視していくということです。

じつは、それが、「自我の教師をクビにして、聖霊の教師を招き入れる」ということの意味なのだということです。

そうすることによって、私たちは自我の思考体系から自由になるだけでなく、正しい知覚がもたらされることになるということです。


私たちに与えられた唯一の機能とは

疑問視していくというその実践は何をしているのか?

というなら、

それは、いわゆる「一歩退いて」「一歩下がって」「明け渡す」「ゆだねる」ということをしているということです。

つまり、その実践が、自我を教師とする代わりに聖霊を教師に選び直すということなわけです。

とはいっても、いざ実践してみれば分かることですが、そう簡単に「一歩退いて」ということができるものではありません。

なぜなら、そうすることは自我にとって屈辱であり、まさに苦痛あるいは恐れとして知覚するからです。

自我は、「自分の考え」や「自分の知覚」を疑いのない真実だと信じ込んでいます。

「自分(の考え)が正しい」と信じています。

私たちは、その自我と同化してしまって、自我になってしまっています。

そのことを認識していくことがとても大事だということです。


自我の思考体系を切り崩していくことは苦痛として知覚されるに違いないが、そうした知覚はおよそ真実ではない。(T-4.Ⅱ.5:1)

奇跡講座/中央アート出版社


私たちが学ばなければならないのは、”そうした知覚はおよそ真実ではない”ということです。

だからこそ、疑問視、つまり自分の価値観を疑っていくことが求められているわけです。

その実践こそが、最も高尚な考え(信念)を招き入れているということを知っておくと良いでしょう。

別の知覚の仕方があるという実践をしていくことが、自我の思考体系と同化してしまっている私たちにできる最も高尚な実践である、ということです。

つまり、「別の見方があるかもしれない」「私は、なにか間違っているにちがいない」「私は、本当はこの私ではないのかもしれない」という考えこそが自分たちを自由に解放してくれるものであるということを私たちは学んでいくだけなく、私たちは修得していかなけばならないということです。

それは、自我である「自分」が一歩退くことを意味します。

自分(自我)が一歩退くとき、そこに聖霊(の思考体系)が招待されることになります。

それが、コースの実践で私たちに求められていることです。

それが唯一私たちにできることであり、それが私たちに与えられた唯一の機能なのだということを忘れないでおきましょう。


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