見出し画像

「ビジネス/お金」と「スピリチュアル」をどう捉えますか?


スピリチュアルとビジネスについて

スピリチュアルとビジネスについては、多くの方々が共通して、ある偏った見方を持っておられるといえましょう。

その偏った見方とは、スピリチュアルでビジネスをすること、つまり、スピリチュアルでお金を稼ぐことは邪悪だと判断しているということです。

真摯なスピリチュアリストであればあるほど、そう思っている傾向があるといえます。

まじめなスピリチュアリストほど自分の中に「これが神聖な生き方、これが神聖な在り方」と信じているところがあり、それゆえ、そうではないスピリチュアリストを見るやいなや、ここぞとばかりに咎め、裁き、攻撃の対象として見てしまうわけです。

かくいう私も以前はそのような偏見があったことは否めません。

たとえば、お坊さん(お寺の住職さん)が高価で派手な貴金属を身に付けていたどうでしょう?

あるいは、聖職に携わっている人が派手な高級車を乗り回しているとしたらどうでしょう?

もしそういった光景を目にするものならば、誰だって、何も気にならないということはないといえるでしょう。

そのように私たちは「神聖さ」「スピリチュアル」とはこうであるべきとか、こうでなければならないというものを持っているわけです。

むしろ、「神聖さ」「スピリチュアル」に携わる者であるならば、質素、清貧でなければいけないとさえ思っています。

スピリチュアリストの生き方はこうであるべきとか、こうでなければならないとか、誰もの中にスピリチュアルな生き方に対するこだわりがあるわけです。

それは、じつに根深いものとして、私たちの中に共通してあるといえます。

とくに、まじめなスピリチュアリストほど、その人なりの「神聖さ、清らかさ」への信念(偏見)が堅固にあるといえるでしょう。


この世界に神聖なものなど一つもない

結論から申しますならば、「神聖さ」は、肉眼で見える姿や形態とは一切関係がないということです。

それは、見た目で、つまり、外見で判断できるものではないということです。

率直に申しますならば、その人が何をしていようとその姿や形態はまったく重要ではありません。

そもそもが、肉眼で見ているこの世界は無なのですから。

それが意味するのは、この世界には神聖なものなど一つもないということです。

無でしかないものが神聖であり得るでしょうか。

そもそもが、そういう世界なのです。

逆に、もちろん邪悪なものもありません。

そのすべてが何の意味もないし、価値もないし、無でしかないわけです。

無であるものに対して、これは神聖である、これは邪悪である、ということなどあり得るでしょうか。

仮に、もし「これは神聖なもの」とするならば、そうではないものは「邪悪なもの」となってしまいます。

神聖さがあるとするなら、邪悪さもあることになります。

それが、この世界というものです。

お金とビジネスについて話を戻すならば、お金を儲けようが儲けまいが、ビジネスをしようがしまいが、そのすべてがこの世界に属することであり、神聖さとはまったく関係ないということです。

つまり、スピリチュアルをビジネスでお金儲けしようが、(それが合法的なビジネスであるかぎり、)いっこうにかまわないということです。

なぜ、普通のビジネスでお金を稼ぐことは許されていて、スピリチュアルでお金を稼ぐことは許されないのでしょう。

ちなみに、スピリチュアル・ビジネスでお金を儲けることを推奨しているわけでもありません。

この世界の中で私たちがすることに、この世界の中で起きていることに、「いい」も「悪い」もないということです。

もちろん、「神聖さ」も「邪悪さ」もありません。

それこそが、スピリチュアリストたちが目指している見方なのではないでしょうか。

もしも神聖さや清らかさといったものにこだわるならば、外側に邪悪さを見ては、攻撃、裁きが尽きることはないでしょう。

そういうことにこだわり続けるかぎり、この世界から自由になることもなければ、真の自己に目覚めることもけっしてあり得ないでしょう。

何度も申しますが、真の自己とこの世界の形態とは一切関係がないということです。

清らかな生き方というものもなければ、邪悪な生き方というものもありません。

清く正しく美しくある必要もなければ、だからといって、邪悪である必要もありません。

この世界には神聖も、クソもへったくれもないということです。

そこに意味を付けているのは誰なのでしょう。

本当の「神聖さ」とは、この世界を超えたところに、この世界を看過したところに、いまここにただ臨在するものです。

それを体現していこうと思うのであるならば、この世界のどれもすべてを包含して「同じ」であるというふうに見ていくことです。

つまりは、それが、善し悪しのない、価値判断のない見方です。

それが、この世界にいる私たちにできる唯一のことであり、私たちが修得していかなければならないものです。

スピリチュアル探究の先に私たちが本当に求めているものとは、これまでのものの見方からすべての価値判断から自由になっていくことなのだということを知っておきましょう。

そこにイイもワルイも、神聖さも邪悪もないということ。

もっと言うならば、そもそもが私たちには価値判断などできないのだということを悟ることが、あなたをこの世界から自由にしていくのだということを知っておくと良いでしょう。


スピリチュアリストたちはこの世界でどのような生き方をしていけばいいのか

では、スピリチュアリストたちはこの世界でどのような生き方をしていけばいいのか?

というならば、

スピリチュアリストであったとしても、この世界にいる皆さんと同じように仕事(ビジネス)をしてお金を稼いでいきますし、ふつうに社会に参加しながら生活を営んでいくことに何の変わりもないということです。

俗世間を離れたり、聖職に携わる必要もありません。

普通の社会人として生活を営んでいく、生きていくということです。

それが何を意味するのかというなら、生き方、職業、といったその形態がどのようなものであろうが何であろうが、そういうことと真理とは一切関係ないのだということです。

たとえ世間的に素晴らしい仕事をしていようが、そうではない仕事をしていようが、つまりは、どんなことをしていようが、何をしていようが、そういうことは一切関係ないということです。

この世界は実在しない夢なのだということを、私たちは忘れないようにしなければなりません。

とくに、この世界の夢から目覚めていくことを目指して非二元(一元論)のスピリチュアルの道を歩んでいるのであるならば、この世界のあらゆるすべてを赦していく必要があります。

何をしていようが、何が起きようが、そこにイイもワルイもないということを忘れないことです。

そのような見方、考え方へとシフトしていくこと、そして、そのように見ることができるようにこの世界をそのレッスンの場として生きるのです。

それが、スピリチュアリスト、ノンデュアリスト、とくに、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)学習者の私たちに求められていることだと言うことができるでしょう。


いいなと思ったら応援しよう!