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ワークブックレッスン68:愛は不平不満を抱かない

ワークブックレッスン68を読み返して、あらためて、その内容の深さに気づかされます。

愛は不平不満を抱かない。(W-p1.68)

自分の内側を忠実に観察していくならば、不平不満ばかりだと気づきます。

なんであぁなんだ、なんでこうなんだ、あぁなればいいのに、こうなればいいのに、、、あぁなってほしい、こうなってほしい、、、

世界に対して、人生に対して、誰かに対して、そして、自分自身に対して不平不満ばかりを羅列して、否定ばかりし続けている自分に気づかされます。

これでいい、それでいい、大丈夫、これでよかったのだ、、、

というふうには思えていないことこそが、まさに愛を拒絶しているというふうに言うことができるわけです。

今ある目の前の現状(リアリティ)を否定し、拒絶し続けることで、今この瞬間のリアリティから分離し続けようとしているということに気づかされるのです。

本当は、今この瞬間のいまここに、安全、があるというのに、です。


”愛は不満を抱かない。すべての不満を手放すとき、私は自分がまったく安全であることを知るだろう。”(W-p1.68.6:8)

奇跡講座/中央アート出版社


そして、さらにもう一つ重大なことに気づかされます。

それは、目の前のリアリティを否定することのその代償の大きさについてもまったく分かっていなかったということです。


”おそらくあなたは、不満を抱くというそれだけのことが自分の心にいったい何をするのか、まだ充分気づいていない。”(W-p1.68.1:5)

奇跡講座/中央アート出版社


そう、ワークブックレッスン68では、それがどういうことなのか?についてわかりやすく教えてくれています。

つまり、

不平不満を抱くことは、

=否定であり、

=拒絶であり、

=分離であり、

=アイデンティティーの喪失(忘却)であり、

=個別の肉体との同一化であり、

=死であり、

=全宇宙の中の孤独な存在

自分自身をそのようにしてしまうことなのだと教えてくれています。

私たちはそのようにして無自覚に、そして、常に、自分自身を傷つけているのだということです。

では、不平不満を抱くことなくいることなんてできるのでしょうか?

もちろん、肉眼でこの世界を見続けるかぎり、つまり、個人の自分からこの世界を見ているかぎり、それはけっしてあり得ないでしょう。

ただ私たちには、そのことに気づいていくこと、そして咎めずに正視していくことはできます。

私たちは肉眼の形態を超えてまったく異なる知覚(心眼/ヴィジョン)を見出していく必要があるということです。

その「まったく異なる知覚」を見出していくために、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)学習者の私たちはコースを学んでいると言うことができます。

そのためには、当然、コースの思考体系を根付かせていくことが必須だということは言うまでもありません。

手放すとは、どういうことなのか?
赦すとは、どういうことなのか?

そのことについて学んでいく必要がありますし、修得していくことが求められているということです。

それは、目の前のリアリティのあるがままをそれでいい、そのままでいい、と受け入れていくということであり、そして、今この瞬間、いまここに安全があることを体現していくことだと言うことができるでしょう。

その安全は、今この瞬間のいたるところに、そしていまここにあるものです。

そのことを頭で知っている、分かっているというだけでは、何の意味もないというものです。

実際に体現していくことしないならば、いったい何の意味があるというのでしょう。

不平不満を抱くことがどういうことなのか?

自分はもっともっと自覚的になる必要があると気づくわけです。

そのことについて、続きのワークブックレッスン69の中でもコースのイエスは以下のように述べています。


また、今日、何かについて誰かを責めたいという誘惑にかられたなら、自分自身に次のように言うことも忘れないようにする。

私がこの不平不満を抱くなら、世の光は私の前から離れてしまうだろう。
(W-p1.69.9:7-8)

奇跡講座/中央アート出版社


世の光から離れてしまわないように。

そうありたいものです。

そのためにはやはり日々の訓練しかないと思う今日この頃です。


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