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幻想を直視しない限り、誰も幻想から逃れることはできない


いまここの平安に留まろうとする実践について

「いまここの平安に留まること」
「いま心地良い気持ちでいること」
「いまここにリラックスすること」

ノンデュアリティのスピリチュアリストさんたちは、その実践としてそのようなことを提唱していたりします。

そして、ときに、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学習者たちもそのような実践をしていたりします。

つまり、心地よい気分になること、平安な気持ちになることがその実践になってしまっているわけですが、コースの実践はそのようなものではないということを知っておくべきです。

結果としてそうなることはあっても、それがコースの実践において私たちがしていくことではないということです。

そのような実践をしているとするなら、それはコース学習者の私たちがしていくこととは真逆のことをしていることになります。

私たちがしていかなければならないのは、むしろ、平安になろうとはしない自分、平安を拒絶している自分のほうに気づいていくことなのだということです。

そして、その自分(自我)を咎めずに(聖霊と共に)見るということをしていくということです。

私たちは自我を見ようはとせずに、聖霊(平安)のほうばかりに心を向けようとするわけです。

あるいは、自我を咎めずに見ているつもりでいても、その自我を消そう手放そうとしたり、自我を修正しようとするのです。

もしそうするならば、それは自我を実在化させていることになるということです。

それでは、ただ自我にパワーを投入すことになるだけです。

それを、コースでは「破壊するための赦し」と呼んでいます。

私たちがしていくのは、自我を手放そうとするのでもなく、自我を修正しようとするのでもありません。

ただ自我を見る(直視する/正視する)だけなのです。

しかも、「自我を咎めずに見る」ということです。

「咎めずに見る」とは、イエスと共に見る、聖霊と共に見るということであり、つまりは、正しい心(正気の思考体系)から見るということです。

つまりは、それが、自我にパワーを与ない、ということなわけです。

そもそも自我には何のパワーもないのです。

その自我にパワーを与えているのは自分だということです。

その自分(心の決断の主体)を自覚/認識する必要があるのです。

ちなみに、そういうことでいうならば、聖霊にもパワーはありません。

聖霊にパワーを与えることができるのは、自分(心の決断の主体)です。

その自分(心の決断の主体)を思い出していくことが、私たちに求められているということです。

その自分(心の決断の主体)は、毎瞬毎瞬、必ず自我か聖霊かのとちらかにパワーを投入しているということです。

(そして、私たちは自我のほうにパワーを与えており、聖霊にはパワーを与えていない状態になっています。)

ですから、自我にパワーを投入していることを、まずは認識していくことです。

それによって、自我がそのパワーを失っていきます。

それが、「自我を咎めずに見る」という実践なのだということです。

つまりは、そうすることがイエス/聖霊にパワーを投入していることになるのだということも知っておくと良いでしょう。


咎めずに見る

すでに上記で述べたように、コースの実践で私たちがしていくのは、「自我を咎めずに見る」ということです。

そしてそれが、「聖霊と共に見る」「イエスと共に見る」ということなわけです。

何のために自我を見る(直視する)必要があるのか?

というなら、取り消し(訂正)のためです。

もちろん、取り消す(訂正する)のはイエス/聖霊の役割です。

覚えておかなければならない重要なことは、それは明るみにされないかぎり、けっして取り消される(訂正される)ことはないということです。


あなたが聖霊の前に闇を顕わにすれば、聖霊は闇に光をもたらす。しかし、聖霊には、あなたが隠すものを見ることはできない。聖霊はあなたのために見るのであり、あなたが一緒に見ない限りみることはできない。(T-14.Ⅶ.6:4-6)

奇跡講座/中央アート出版社


自我にとっては直視されないままにすることが、自我を保持していくための策略なのだということです。

だからこそ、直視していかなければならないのです。


幻想を直視しない限り、誰も幻想から逃れることはできない。見ないでいることにより、幻想が保護されているからである。(T-11.V.1:1)

奇跡講座/中央アート出版社


直視するとは、つまり、明るみにしていくということです。

自我が明るみにされることもないまま、つまり、自我が取り消されることもないまま、いくら平安になろうとしたところで、結局は、また自我に振り回され続けることになるだけということです。

話を元に戻すなら、

ようするに、「いまここの平安に留まる」「いま心地良い気持ちでいよう」という実践は、(それがいけないということではありませんが、)何の解決にもならないということです。

なにせ、私たちがしなければならないのは、自我(障壁)を見つけ出していくこと、つまり、自覚/認識していくことなのだということです。


あなたの為すべきことは愛を探し求めることではない。あなたが自分自身の中に築き上げてきた愛を阻む障壁のすべてを探して、見つけ出すことである。真理であるものを探し求める必要はないが、誤まっているものを探し出すことは確かに必要である。(T-16.IV.6:1‐2)

奇跡講座/中央アート出版社


自我を直視することなしに、自我を取り消そうとか、自我から脱却しようとか、自我から自由になろとしても、平安になろうとしても、それでは何の意味もなさないということです。

むしろ、そのような実践は否認(抑圧、隠蔽)しようとする自我の企みであると認識する必要があります。

しかしながら、残念なことに、そういうことはコースの教えを理解するようになってようやく認識されるくることです。

つい私たちは「いまここの平安に留まる」「いま良い気持ちでいよう」ということにファーカスして実践をしてしまいます。

それがいけないということではありません。

ただそれはコースの実践としてしていく実践とはちがうということです。

私たちがしていく実践とは、自我を手放すということではありません。

自我をむやみに否定していくということでもありません。

あるいは、自我を修正しようするものでもないということです。

私たちがしていくのは、「自我を見る、自我を直視する、自我を正視する」ということです。

しかも、咎めずに、イエス、聖霊と共に、です。

それが、「自我を聖霊のもとに運ぶ」「幻想を真理のもとに運ぶ」ということの意味です。

そうしていくことで、自我はパワーをなくし、自我が取り消され、次第に私たちは自我から解放されていくことになります。

自我から解放されていくとはどういうことなのか?

というなら、自我の思考体系も、自我の思考体系が作り出したこの世界も、(この自分も含めて)そのすべてが実在しない虚偽だと理解されていくと同時に、それらを見ている自分とは誰なのか?つまり、真のアイデンティティー(真の自己)が思い出されていくということです。

何度も申しますが、「いまここの平安に留まる」「いまいい気持ちでいよう」という実践は、まったく見当ちがいの実践をしているということです。

そのような実践をしていくならば、自我を否認したまま、自我から自由になろうとする試みであり、何の解決にはならないどころか、むしろ、自我を実在させて、自我を強めていきかねないといえるでしょう。

「自我を見る、自我を直視する、自我を正視する」ということをしていかなかぎり、自我が取り消されることはないということです。

私たちはそいうことをしっかり理解しておくべきです。

コース学習者であるならば、なおさらのことです。

「いまここの平安に留まる」「いま良い気持ちでいる」という実践が間違っているというわけではありません。

ただ、そこに否認や隠蔽が働いていないか?否認(抑圧、隠蔽)しようとする自我の力動に私たちは警戒する必要があるということです。

そのことに注意深くなっていくことは、コースの学習者である私たちにとってはとても重要な項目の一つであるといえましょう。


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