なぜ、真理や愛のほうではなく、自我や闇を直視していくのか?
自我(間違った心)と聖霊(正しい心)は一つの心の表裏
自我を直視する。自我を正視する。
それがコース(奇跡のコース/奇跡講座)の実践で私たちがしていかなければならないことです。
ようするに、私たちが見ていくべきものとは、聖霊でもなければ、愛でも光でもないわけです。
自我を見なさい!ということです。
それは、罪悪感、恐れを見なさい!という意味でもあります。
いわゆる、闇を見なさい!と。
なぜ、私たちにそれが求められているのか?
というなら、
単純に、闇(自我)があるところに、真理の光(聖霊)があるからです。
つまり、罪悪感や恐れがあるところに、同じ場所に愛があるからです。
言い換えるなら、それ以外のところをいくら探しても、愛も光もないということです。
もちろん、それ以外をいくら探しても、赦しも癒しもありません。
それが何を意味するのか?
というなら、それ以外のところにあるかのように見える愛や光といったものは、すべて自分が作り出した代替品(まがいもの)だということです。
コースの学習者にかぎらず、非二元/真理を探究する私たちは、そっち(代替品/まがいもの)の愛や光を見ようとしているのがほとんどです。
私たちが覚えておかなければならないのは、自我が見えるところに、その同じ場所に聖霊(愛/真理の光)が在るのだということです。
自我(間違った心)と聖霊(正しい心)、それらは一つの心の表裏としてあるのだということを知っておくべきです。
闇があるところを見なさい!
そうすれば、そこに光があるのを見つけるでしょう。
罪悪感、恐れをよく見なさい!
そうすれば、それは闇ではなく、「愛の呼びかけ」であることが明らかになるでしょう。
そのような知覚になっていくとき、幻想を超えて、あらゆるところに愛の臨在を知覚するようになるでしょう。
そして、ここがすでにまさにわが家であったことが思い出されていくことでしょう。