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恐れを認識していくこと、そして、その恐れと闘わないこと


この世界は恐れを土台として作られている

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びを通してこの世界の夢から本気で目覚めていこうとしているコース学習者であるならば、自分の中の「恐れ」を認識していくこと、さらにはそれを通り抜けていくことが求められています。

というのも、自分の中の「恐れ」を直視していかないかぎり、その「恐れ」が取り消されていくことはないからです。

「恐れ」を通り抜けるとは、つまりは恐れを取り消していくことでもあるということです。

逆の言い方をすれば、自分の中に「恐れ」があるということを自覚/認識していかないかぎり、それはコースの実践ではないということです。

もっといえば、恐れが自覚/認識されていかないならば、コースの実践すらもできないということです。

そういうことでいえば、恐れを感じているほうが、赦しのレッスンの機会(チャンス)とみなすことができるわけです。

とは言いましても、はじめからそう簡単に恐れを直視できるようなものではありません。

むしろ、私たちは、恐れを避けていたいし、恐れはないほうがいいと思っています。

それゆえ、私たちは、その恐れを外側の世界に投影するわけです。

投影することによって、その恐れを外側のせいにすることができるだけでなく、自分の内側にある恐れを見ないですむわけです。

そうやって恐れを直視させないことで、じつは、私たち(自我)は恐れを保持しようとしているのです。

恐れを保持することによって、分離の想念をリアルにすることができ、この世界の夢を実在化させ続けることができるわけです。

それが、私たち(自我)がしていることです。

ただし、私たちはそのことにまったく無自覚になっています。

だからこそ、私たちはその自我がしていることを認識していく必要があるのです。

そう、自我のしていることが認識されていくなら、その自我には何の力(パワー)もないことが分かるでしょう。


私たちが本当に恐れているものは?

私たちは、本当は、何を恐れているのか?

コースは、そのことについて明確に教えてくれています。

私たちが本当に恐れているものとは、神の愛であり、真理であり、目覚めなのだということです。

なぜなら、それらを目の前にするならば、「私」という個別の自己(self)が消滅することを知っているからです。

じつのところ、私たちはそうなることを恐れているわけです。

その恐れを私たちは、この世界という舞台に投影しているのです。

つまり、この世界はその恐れによって作り出されているということです。

そう、私たちはこの世界の舞台でそれぞれ個人の自分としていろいろな形でその恐れを体験しているだけなのです。

コースが教えていることを理解するようになるまでは、その真実は私たちの無意識の領域に隠され続けています。

神の愛を、真理を、目覚めることを、まさかこの自分が恐れているとは思いもよらないことだといえましょう。

「世界がある」「自分はこの世界に居る」というふうに知覚していることがそういうことなのだということは、はじめはまったく受け入れ難いことだといえるでしょう。

この世界にいる私たち全員が共通して、その恐れを持っているのです。

(逆に、もしその恐れがないならば、もはやこの世界の夢の中にはいないでしょう。)

それゆえに、私たちはその恐れを直視していくこと、そして恐れを取り消していくことが求められているわけです。

それが、コースの学習者である私たちがしていくべき実践なのだということです。

私たちはその恐れを聖霊と共に見ていく実践をしていくということです。

なにせ、自我はそれに対してひどく防衛しようとします。

(実際の実践を通して、その自我の防衛(抵抗)をありありと認識していくことになります。)

自我は恐れを直視させないようにするのが、その目的なのです。

なぜなら、自我にとっては、恐れが取り消され、恐れは実在しない、となることが一番マズイわけですから。


恐れを消し去ることはせずに最小限にとどめるというのが、自我が絶えず努力していることであり、この点において自我の技はきわめて巧妙である。恐れにより分離を支えなければ、いかにして自我が分離の教えを説くことができるだろう。(T-11.Ⅴ.9:2-3)

奇跡講座/中央アート出版社

自我を根本的に脅かすのは、「神から自分を分離させるように見えるものは何であれ、それがどんな形態をとろうと、また、自我がそれを自分にどう経験させたいかは別として、すべて恐れに他ならない」とあなたが認識することである。自我の自立という夢が、この自覚によってその根底から揺さぶられる。(T-11.Ⅴ.10:1-2)

奇跡講座/中央アート出版社


「すべてが恐れに他ならないことを認識しなさい」と、コースのイエスが私たちに教えてくれています。

それは、この世界のすべてが恐れを土台に作られているということであり、もっといえば、この世界は「恐れ」を見ないようにするためのただのトリックにしかすぎないということです。

ならば、その恐れは自分の内側にあるということです。

この世界に居る私たちは誰もがみんな、この今も神の愛を、真理を、目覚めることを、恐れています。

その自分を自覚/認識していくこと、そして認めて(受け入れて)いくことです。

それによって、自我に力(パワー)が失われていきます。

そのようにして、恐れが取り消されて(弱まって)いきます。

自分の内側にある恐れを認識していくこと、そして、その恐れと闘わないということです。

それをコースでは「赦し」と呼んでいます。

それが私たちがしていくことであり、私たちに与えられた唯一の機能(役割)なのです。

「恐れ」を聖霊と共に直視していくなら、つまり、「恐れ」をありのままに見ていくなら、私たちは恐れというものをこれまでとはちがったふうに知覚するようになります。

恐れがあるところに平安があるのが分かるでしょう。

恐れがあるところに愛があることを知るでしょう。

実践を通してそのことが理解されていくとき、もはや恐れが恐れではなくなるだけでなく、愛の臨在を知覚するようになるでしょう。

そして、恐れで作り出されたこの世界をまるごと愛のまなざしで眺めるようになるでしょう。


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