ラマナマハルシが「自己探究(self-inquiry)」と呼んでいたもの
私とはだれか?神とはなにか?
「悟り」と言うとき、それは「達観する」「到達する」というイメージがあったりするわけですが、
実際、私自身の感覚で言うならば、「悟り」とはそういうものとはちがって、むしろ、この世界の夢を知覚しているかぎり、それはけっして終わることのない自己探究なのだというふうに思えているのが正直なところです。
それは無限なるものへの探究なのだということです。
それはもはや好奇心やワクワク感という喜びを伴った霊的探究となっていくということです。
それは、未知なるものへの探究ともいえます。
そのもっとも未知なるものこそが自分であり、「私」と思っているソレであるわけです。
ときに、私たちはソレを「神」と呼んだりするわけですが、ソレそのものがまったく未知なわけです。
私とはだれか?
神とはなにか?
それは、ラマナマハルシが「自己探求」と呼んでいたものなのだろうと思います。
それは、外側に見えているもの(兄弟)すべてを通して、自分とは何者か?を延長していく探究なのだといえましょう。
神の教師たちの特徴である「開かれた心の状態」とは
上記で述べたような「終わることのない自己探究」について、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)という別な角度からみるならば、それはまさに愛の延長と呼んでいるものだといえましょう。
私たちの知覚が正しい知覚へと翻訳されていくとき、知覚するものすべてが天国の反映(愛の反映)として知覚されてくるようになります。
それをコースでは「キリストのヴィジョン」と呼んだりします。
知覚がシフトしていくにしたがって、私たちはキリスト(愛)の臨在を知覚するようになっていくわけですが、それがコース学習者の私たちが目指しているものであるわけです。
それは、どこまでいっても愛の延長でしかないということです。
ようするに、この世界を知覚しているかぎり、その探究は終わることがないのだということです。
それは、けっして「達観する」というものではないということです。
それは、教師やティーチャーみたいになっていくのとはまったく真逆であり、むしろ、生徒のようになっていくことを意味します。
その状態とはどういうものなのか?
というならば、
私は分からない、知らない(Don't know mind)
というものです。
そうなっていくにしたがって、ヴィジョン(心の眼/キリストのヴィジョン)がますます開かれていくことになります。
そう、コースの教師のマニュアルの神の教師たちの十の特徴で述べられている「開かれた心の状態」(M-4.10)とはそういうものだということを知っておくと良いでしょう。