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ワンネスをこの世界に反映した知覚の仕方を修得していくために


誰かを裁くとき、誰かを攻撃したくなるとき

誰かを裁いているとき、あるいは、誰かを攻撃したくなるとき、私たちは、その相手に向かってこのように言っていることになります。

「私とあなたは別々の存在です。私はあなたとは違うのです。あなたは間違っていて、私が正しいのです。あなたが処罰されることで、私は処罰されずに済むのです」と。

非二元の真理から見るならば、私たちは一つ(ワンネス)であるにもかかわらず、「私たちはワンネスではない」と宣言しているわけです。

ということは、明らかにその自分は自我であることが分かります。

つまり、二元性、個別性、特別性を実在化させることによって「神からの分離は起きた」と証明しようとしているわけです。

それが、この世界の私たちがしていることです。

この世界で私たちはお互いに、相手を裁き、攻撃することによって、ワンネス(一体性/真理)を拒絶し続けているということです。

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくにつれて、私たちはそいういうことに気づけるようになっていきます。

つまり、「神からの分離を信じた」その原初の瞬間に神に対して行ったこととまったく同じことを、自分はこの世界において、相手を変え、あるいは状況を変えて行っている、ということが自覚/認識できるようになるということです。

しかも、それがこの世界の中ではただ繰り返されているだけなのだということが、実践を通して体験的に理解されてきます。


毎日、毎分、刻一刻、あなたは恐怖の時間が愛の座を奪ったあの一瞬を再び生きているだけである。(T-26.Ⅴ.13:1)

奇跡講座/中央アート出版社


毎瞬毎瞬が、つまり、この今こそ、今この瞬間こそ、その「原初の瞬間」なのだと分かってくるわけです。

原初の瞬間」とは、時間がはじまったところでもあり、時間が終わったところでもあります。

それは、このリニアな時間軸上ではない「今」であり、時間の外の「永遠なる今」と呼ばれています。

本当の自分(私たち)はいつもそこに居るのであり、そこに居ながら、この時空間の世界を眺めているだけということが体験的に理解されてくるようになります。

時空間という妄想のスクリーン上で展開しているドラマは、じつのところ、原初の瞬間をただ繰り返しているだけにすぎない、と。

この世界のすべてが、この世界で起きることのすべてが、「神からの分離の想念」を信じたその結果としての影(映像)をただ見ているだけであり、そのすべてが虚偽である、と。

ようするに、この世界は、その瞬間を様々なバリエーションに投影した影にしかすぎない、ということが深いレベルで理解されてくるわけです。

そして、それこそが「赦し」「奇跡」と呼ばれるものであり、コース学習者の私たちが修得していかなければならないものなのだといえましょう。


兄弟として見るか?他人として見るか?

私たちはこの世界で何をしているのか?

というなら、

今や私たちはすっかりこの分離の世界を信じていて、その知覚にすっかり騙されてしまっていると言うことがでいます。


形態の知覚ほど、目を眩ませるものはない。なぜなら、形態を見ているということは、理解が曖昧にされていることを意味するからである。(T-22.III.6:7-8)

奇跡講座/中央アート出版社


私たちは形態の知覚に騙されていて、この世界の中の兄弟(姉妹)たちを他人/他者として見てしまっています。

兄弟を自分(の一部)としてではなく「他人」として見ているということが何を意味するのか?

というと、

彼らを自分とは離れた別の存在だと信じているということです。
(それがふだんの私たちの知覚です。)

本当は、私たちは分離しておらず、ワンネス(一体性)なはずであるにもかかわらず、です。

つまり、それは明らかに間違った知覚なわけです。

ですから、私たちはその知覚を訂正していく必要があるわけです。

そう、コースの実践で私たちがしていかなければならないのはは、他人/他者を自分とは別の存在としては見ないで、「全員みんな(自分も)同じ」というふうに見ていくということです。

すべては「同じ」として、包含していくということです。

誰ひとり何ひとつ除外することなく、すべてを包含して見ていくとき、私たちは自らの聖性(holiness))を思い出していくことになります。

つまり、自分は「心」であるというアイデンティティーが思い出されるようになっていきます。

言い換えるなら、「心」の自分を思い出したところ(視点)からでしか、「全員みんな(自分も)同じ」というふうに見ることは不可能だということです。

そう、そこに見えているものたち(他人/他者)が自分(の一部)として見えるわけです。

いわゆる、自分と同じ兄弟姉妹として見ることができるわけです。

つまりは、

兄弟として見るか?他人/他者として見るか?

という実践について、次のようなことが言うことができます。

兄弟(姉妹)を他人/他者として見ているなら、自分自身を「個の肉体」であるとして見ているということであり、

一方、

兄弟も自分も同じ(全一性)として見るならば、自分自身を「心」の自分として認識して見ているということです。

兄弟として見るか?他人/他者として見るか?

それは、自分自身をどう見ているか?ということなのだとも言い換えることができます。

そして、他人/他者としてではなく、兄弟として見ていくことが私たちに求められているということです。

そのように見ていく訓練なくして、コースの学びの階梯を上っていくことはけっしてあり得ません。

ワプニック博士も、こう云っています。

「全一なる知覚へとシフトしていかないかぎり、つまり、心の自分を自覚していかないかぎり、このコースを実践していくことはできません」と。

コースの実践において、心である視点からでしか「赦し」は絶対にあり得ないということです。

ようするに、その知覚を修得していくことが私たちが訓練していくべきものであるわけです。

それなしには、この時空間を超えた永遠なる全一なる完全なる「真の自己」を思い出していくことは絶対に不可能だということを知っておくと良いでしょう。


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