心を開いていくその方法について
「自分は正気じゃない」という狂気の自覚
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えていることの理解が深まっていくとどうなるのか?
というと、ますますコースの思考体系(正気の思考体系)を学ぶ必要性と重要性を認識するようになると言うことができます。
いわゆる、コースを学んでいこう、コースを実践していこう、というモチベーションがますます高まっていくということです。
というのも、「自分は自我である」「自分は狂気の思考体系と同化している」ということが自覚されてくるならば、自分はこのままでいいわけがない、正気に戻りたい、と望むようになるのは自然のことだからです。
「自分は狂っている、病んでいる」ということがますます分かっていくわけですから、そのままでいいわけにはいかなくなるということです。
じつのところ、本格的なコースの学びは、そこからはじまるといえます。
ようするに、「自分は正気じゃない」という狂気の自覚/認識が、コースの学びの階梯を上っていく上では必須なのだということです。
その自覚/認識によって、私たちは本当の意味でコースの思考体系を修得(マスター)しようとなるからです。
そうなってようやく私たちは、導き手、癒し手であるイエス/聖霊を教師としはじめることができるといえましょう。
むしろ、その自覚がないなら私たちは学んでいくことはできないと言えるでしょう。
コースのワークブックでも、そういうことが述べられています。
別な言い方をするならば、「自分は分かっている」「自分はまともだ」「自分は正気だ」と思っているとしたなら、コースを学んでいくことはできないということです。
実際のところ、私たちは「自分(の考え)が正しい」と思っています。
その考えこそがコースの学びを危うくするということです。
そのことを重々わきまえておきましょう。
自分の考えを放棄していく
上記でも述べたように、コースが教えていることの理解が深まっていくにつれて、私たちは自分が自我の思考体系と同一化してしまっていることを自覚/認識するようになっていきます。
自分は自我になっていることを自覚/認識するようになるわけです。
そう、その自覚/認識によって、ようやく私たちは本当の意味でコースの学びのプロセスがはじまると言うことができます。
言い換えるなら、自分は自我であることを自覚/認識すればするほど、コースを学ぶ目的が明確になっていくといえましょう。
というのも、自分が狂気であることを自覚するならば、正気へと戻ろうとするのが自然な心の働きだからです。
自分は自我である、自分は狂気になっていると自覚するからこそ、自分は正気の思考体系について学んでいく必要があることを自覚するわけです。
つまり、
なぜコースの思考体系を学ぶ必要があるのか?
そしてなぜコースの思考体系を修得していく必要があるのか?
コースの学びと実践の必要性と重要性を理解するようになるということです。
それはなぜなら、正気の正しいものの見方、考え方、それこそが自分にとって自然で当たり前の状態なのだということだからです。
それは、これまでの自分の考え、自分の価値観、自分の世界観、自分の人生観、そのすべてを放棄することを意味します。
ですから、まず私たちは、自分が真実だと信じている考え、価値観、世界観、人生観といったものすべてが間違っている、狂っているということを認識することが絶対に不可欠なのです。
逆に、自分はまともだと信じているかぎり、あるいは、自分は正しいと信じているかぎり、どうやってそれらを放棄することができるというのでしょう。
「開かれた心の状態」になるための第一歩
コース学習の霊性の道の歩みはとても不思議なもので、「自分は分かっていなかった」と気づくときが、その学びが進んでいるときだと言うことができます。
コースの学びはそのように進んで(深まって)いくということです。
さらにいえば、「自分は分かっていない」ということを受け入れることが「開かれた心の状態」になるための第一歩であると言うことができます。
なぜなら、そのとき、私たちはようやく自分の考えや価値観を疑うことができるからです。
つまり、そのときこそが、まったくこれまでと異なる見方を選択したということになるわけです。
じつのところ、自分の考えや価値観を疑うこと、それが「心を開く」ということなのだということです。
最終的には、それが当たり前な状態になることが、私たちコース学習者が目指している状態だといえましょう。
そう、その状態こそ、まさに教師のマニュアルで述べられている「開かれた心の状態」(M-4.Ⅹ)と呼ばれているものです。
それは、神の教師の特徴の一つであり、しかも、神の教師の十の特徴の中の一番最後(10番目)に示されており、私たちが最終的に必ず修得(マスター)していくべきものだということです。
ようするに、「自分は分かっていない」「自分は間違っている」ということを受容していくことが、私たちがしていく訓練なのだということです。
それは、自らのジャッジメント(価値判断)を手放して(明け渡して)いく訓練なのだということです。
そしてそれが、「一歩下がる」「一歩退く」という在り方であり、私たちはその在り方を修得するために訓練しているということです。
実際、私たちはその訓練していくとき、そのことを受け入れたほうが平安がもたらされることを実践の中で体験的に理解していくようになります。
同時に、逆に自分の考えや、価値観は正しいと信じ続けることは、苦痛、苦しみ、葛藤、裁き、といったものしかもたらされないということも理解するようになります。
一方が、自分に苦痛、苦しみをもたらすものであり、もう一方が、自分に平安、幸せをもたらすものであるなら、誰だって後者のほうの在り方を選択するに決まっています。
ただし、自分自身を観察していくと、私たちはいつも前者のほうを選んでいるのが自覚されます。
「自分は分かっている、自分が正しい」としているのです。
それが、通常の私たちです。
ですから、実践では、その訂正として自分の考えや価値観を疑うことをしていくということなわけです。
その態度(在り方)こそが私たちに求められているものであり、それが、「開かれた心の状態」なのだということです。
そうする(自分の考えや価値観を疑う)とき、私たちは自らの内側からその答え(ガイダンス)を受け取ることになります。
その答え(ガイダンス)こそが、「ヴィジョン(心眼)」と呼ばれているものです。
ただし、「自分は分かっていない」「自分は間違っていた」ということを受容していくということは、ある意味、自分の特別性、個別性を放棄していくということでもあるわけで、そう簡単にできるものではないということも知っておきましょう。
そこには、多大な訓練を要するということです。
そこには、プロセスというものを要するということも知っておきましょう。