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それが自然で当たり前になるまでその学びと訓練はなされなければならない

誰が学んでいるのか?誰が訓練しているのか?

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びにおいては、学びが進むたびに「自分は間違っていた、自分は分かっていなかった」という気づきとともに理解が深まっていくと言うことができるでしょう。

言い換えるなら、「自分は間違っていた、自分は分かっていなかった」と認識するときが、学びが進んでいるときだと言うことができます。

そして、そのたびに、そこからがまた次なる学びのプロセスのステージのはじまりとなるといえます。

そのようにしてコース学習者の私たちは学びの階梯(はしご)を上っていくのだということを知っておくと良いでしょう。

そのたびに、ここからが学のはじまりであり、ここからが実践のはじまり、というふうになるということです。

毎回毎回、ここからが新たな学びのはじまりです。

いつのときも、いまここからがはじまりであり、そして、いまここがゴールです。

ワプニック博士も以下のように述べています。


”奇跡のコースでは、私たちが向かっていた方向が間違っていたことを認識したときに、新たな始まりが起こることがわかります。私たちは今、はしごを上って、下の段に留まらないことを望んでいます。私たちが「別の方法があるに違いない」と本気で言うことができるとき、新たに始まります。 ”

ー『Journey through the Text of A Course in Miracles』より抜粋ー


誰が学んでいるのか?誰が訓練しているのか?

というとき、学びが深まっていくにつれて、それは個人の自分ではなく、「心」の自分であるということが自覚/認識されていきます。

その「心」の自分は、ずっと「いまここ」にいるだけです。

「いまここ」とは、この世界とは一切関係ないところ、つまり、この時空を超えたところであり、時間がはじまったところであり時間の終わりの地点でもあります。

本当の自分はそこにいて、その自分がコースの訓練をしているのだということが自覚/認識されていくようになります。

それは何の訓練なのか?というなら、

この世界の夢を見てはいるものの、「これは夢(虚偽/偶像)である」ということを毎回思い出していく訓練なのだということです。

それをコースでは、「赦し」と呼んでいるわけです。


”赦しは じっと静かにしていて、何もしない。・・・・それはただ見て、待つのみであり、判断はしない。”(W-pII.1.4:1,3)

奇跡講座/中央アート出版社


つまり、コース学習者の私たちは、「赦し」の実践を通して、これまでとはまったく別のもう一つの見方を学んでいるのだと言うことができます。

そのもう一つの見方こそが、「ヴィジョン(心眼)」と呼んでいるものです。

その「ヴィジョン(心眼)」を完全に修得することが、私たちが目的としているものなのだということです。

というのも、それが私たちにとって本来の真の知覚であるからです。

それは完全に修得されるまで、つまり、それが自然で当たり前になるまでその学びと訓練はなされなければならないということを心に留めておきましょう。


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