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喜びも苦しみもどちらも同じとして見ている視点こそが、真の喜びがあるところ

本当の平安とは、本当の幸せとは

ときに、

「私は平安です」「私は幸せです」「私はハッピーです」

といったことをSNSで発信しているスピリチュアリストさんやノンデュアリストさんを目にしたりしますが、

それって本当なのだろうか?と思ってしまいます。

それは、本当に平安といえるのでしょうか?

それは、本当に幸せだといえるのでしょうか?

コース(奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいる者にとって、あるいは、純粋な非二元、つまり一元論のスピリチュアリティを探究する者にとっては、そのすべてが嘘だということは明らかです。

別に彼らを嘘つき呼ばわりして避難しているわけではありません。

非二元の視点から見るならば、この世界に居る私たちは誰もが嘘つきです。

だからこそ、コースを実践している者であるならば、あるいは、この世界の夢から目覚めようとしている者であるならば、自分の内側に正直にならなければならないといえましょう。

コース学習者が理解しておかなければならないのは、私たちが「平安」「幸せ」と言うとき、そのほとんどが否認、隠蔽しているにすぎないということです。

というのも、コースの学びが深化していけばいくほど、その否認、隠蔽しているものが明らかになるからです。

自分はこの世界に居ると思っているかぎり、完全に満たされて、ストレスの無い(ストレスレス)状態など絶対にあり得ないということを理解するからです。

そう、コース学習者の私たちが学ばなければならない重要なことは、

本当の平安、本当の幸せは、

喜びも苦しみもどれも一緒(同じ)

という視点からみているところ以外にはないということです。

つまり、それはこの世界のすべてが夢であると気づいている視点であり、自分はこの世界には居ないと気づいている視点なわけです。


喜びのない場所では、自分がそこに居ないと気づく以外にどのようにして喜びを見つけられるだろう。(T-6.Ⅱ.6:1)

奇跡講座/中央アート出版社


ようするに、「私は幸せです」と言っているその自分こそがこの世界には居ないのだと分かっている視点こそが、真の喜び、真の平安がもたらされるところであり、

言い換えるなら、その視点以外に平安、幸せはあり得ないということです。

コースでは、その視点を「聖霊の視点」と呼んでいます。

いわゆる、非二元でいうところのアウェアネス(気づき)と呼ばれている視点です。

その視点にいる自分を思い出している者は、つまり、本当の平安、本当の幸せを見い出している者は、もはや、「幸せ」「平安」という概念すらなく、もちろん平安や幸せを主張したりなどするわけがありません。

幸せであろうが不幸せであろうがどれも同じと見ているからです。

その視点に居る者のみが、(真の)平安、(真の)幸せがもたらされるのであり、その視点を思い出していくことが私たち目指しているものだということです。

そう、コース学習者である私たちが目指している平安、幸せとはそういうものであるということを知っておく必要があるといえましょう。


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