あなたの為すべきことは、愛を探し求めることではありません
それが真理に対する自我の防衛だと気づきなさい
私たちが知っておかなければならないことは、この世界にいる私たちは誰
もが、罪、罪悪感、恐れを隠し持っているということです。
この世界にいるということ自体が、そういうことなのだということです。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では、それらを「密かな罪や隠された憎しみ」(T-31.VIII.9:2)というふうに表現しています。
私たちはコースの学びと実践において、それらを自覚/認識していくことが求められています。
というのも、それらは自覚/認識されることによって取り消しが可能となるからです。
それがコースの学習者である私たちがしていくことなのだと、コースのイエスは云っています。
つまり、コースの学習者である私たちはその実践において、「密かな罪や隠された憎しみ」(T-31.VIII.9:2)と向き合っていく必要があるということです。
言い換えるなら、コースの学びのプロセスにおいては、罪悪感、恐れ、怒りといったものが必ず湧き起こってくるということです。
そして、本気でこの世界から目覚めようとするのであるなら、私たちはそれらと直面していかなければならないということです。
要は、そのことを否定的に捉える必要はないということです。
むしろ、私たちはそのことを受け入れていく必要があるということです。
私たちは「奇跡」を通してそれらを取り消すことをしていきます。
それが、私たちが実践でしていかなければならないことだということです。
つまりは、それが「愛を阻む障壁」を取り消していく、ということです。
「愛を阻む障壁」とは、自我による真理に対する防衛のことを言います。
私たちは、無意識のレベルで真理をとてつもなく恐れている=神の愛を恐れているのです。
それゆえ、真理(目覚め)へと向かうことに対して、防衛(抵抗)しようとする精神力動が働くのだということです。
ですから、コースの学びと実践において恐れ(抵抗)が湧き起こってくるとき、それはけっして驚くようなことでもなければ、当然のことなのだということを知っておくとよいでしょう。
むしろ、恐れ(抵抗)が湧き起こったときこそが、コースの赦しのレッスンの機会だと捉えていきましょう。
それというのも、恐れ(抵抗)が湧き起こってこないならば、それを取り消すことはできないからです。
ワプニック博士はこう云います。
「もし人生がうまくいっているなら、コースを学ぶことはできません。もしハッピーならば、そもそも学ぶ必要がありません」と。
それはある意味で皮肉った言い方であるわけですが、実際のところ、その通りだと言うことができます。
同じコース学習者であったとしても、恐れと向き合うことなく、恐れを直視することなくコースを実践しているつもりでいるケースはよくあることだからです。
私たちが知っておかなければならないのは、目覚めない程度にコース学習をさせておく、それが自我の策略なのだということです、
何度も言いますが、本気でこの世界の夢から目覚めたいのであるのなら、恐れと向き合っていくことなしには、けっしてそれはなし得ないということです。
それはけっして避けられないということです。
コースの学びが深まっていくにつれて、自我の防衛(抵抗)が顕わになってくるということです。
それは、外側の状況が悪化したように見えたり、理由もなくネガティブな思考や感情に苛まれたり、さまざまな形で現れてきます。
(ただし、内側に感じているものをよく見るならば、それは今にはじまったもの(思考/感情)ではないということは明らかです。)
それらの思考や感情といったものこそが、真理に対抗する防衛であり、私たちの内側にひた隠しにしているものなのです。
それらを直視していくこと、そして取り消していくことが、私たちがコースの実践でしていくことなのだということです。
つまりは、それらの思考や感情こそが、愛を遮っている「障壁」なのだということです。
私たちは実践において、ネガティブな思考/感情といったものを直視しようとはせずに、愛や平安といったもののほうばかりにフォーカスしようとしますが、そうではないということです。
私たちがしていかなければならないのはまさにその真逆であり、私たちは「障壁」を直視していく必要があるのであり、それなしに愛を思い出すことなどけっしてないということです。
逆に、「障壁」を正視(直視)していくならば、それらが取り消されたそこに愛(神の平安)を思い出すことになります。
もし、今すでに恐れ、罪悪感、不安といったネガティブなものと直面している状態にあるのならば、それらを直視していく機会(レッスン)だと捉えるべきです。
それらこそが自我による真理に対する防衛だと気づくべきです。
それらすべてが本当は幻想(実在しないもの)なわけですが、その幻想を超えていきたいのならば、もはや前に進んでいくほかありません。
前に進んでいくとは、コースの学びの理解を、実践へと適用(練習)していくということです。
もしそうじゃない方向に後戻りしたところに希望や平安があると信じているのなら、それも自我の真理に対する防衛だと気づくべきです。
自我を教師とするのか?
それとも、
聖霊を教師とするのか?
じつのところ、私たちは、毎瞬毎瞬、その選択肢にいるのです。
たしかに、このコースはそう生半可な霊性の道ではありません。
でも、それでも一歩一歩前進していくならば、いまここに臨在している愛(神の平安)を知る(知覚する)ようになるでしょう。
そして、その経験を重ねていくことによって、ますますその学びと実践は妥協のないものとなっていくことでしょう。