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コースを神聖化、崇拝化、偶像化、儀式化しないこと
コースという本が神聖なのではありません
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が正しく学ばれていない場合によく見られるケースが、『ア・コース・イン・ミラクルズ(奇跡のコース/奇跡講座)」というものを神聖化してしまうことだといえましょう。
「私は清らかな正しい神聖な霊性の道を歩んでいるコース学習者である」というふうに勘違いしたり、あるいは、コース学習者はそのようにならなければならないと思い込んだりして、コースを特別なものにしてしまうわけです。
それは、コース学習者によくありがちなケースだといえます。
(もちろん、この私もそうでした。)
それがいけないということではありませんが、コースが正しく学ばれ、そしてコースの教えが正しく理解されていくなら、けっしてそのようにはならないといえましょう。
コースは神聖さへと導くものではありますが、コースが神聖なのではないということです。
もしコースを神聖なものとしてしまうならば、コースが教えていることとは真反対の実践をしていることになるといえます。
そうなってしまうなら、そもそも何のためにコースを学んでいるのか?ということになりかねません。
むしろ、コースはそういうもの(宗教/スピリチュアル)から自由になっていくための道であることを知っておくと良いででしょう。
コースは聖者、賢者になることを目的とはしていないということです。
そういうものとは一切関係のない真の自己(真のアイデンティティー)を思い出していくことが目的なのだということを忘れてはなりません。
コースという本が神聖なのではありません。
神聖なのは、コースが教えているその内容のほうです。
その内容が正しく学ばれることがないならば、コースの学びがまったく意味をなさなくなってしまいかねません。
では、コースが教えている内容が正しく学ばれていくならば、私たちはどのようになっていくのか?
というなら、この世界の中に神聖なものなど一つもないことが分かるようになっていきます。
ここ(この世界)のすべてが無(虚偽)であることを理解するようになるからです。
そもそも「無」であるものが、神聖であるわけがありません。
もちろん、コースもその例外ではありません。
そして、それが、コースが教えている内容です。
コースの教えが正しく理解されていくなら、そういうことが明らかになっていきます。
『ア・コース・イン・ミラクルズ(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)』も、この幻想世界の中の一つの象徴(シンボル)にしかすぎないことが分かってくるということです。
実際、コースもさまざまにあるノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティの中の一つ霊性の道にしかすぎないということです。
この世界のものすべてを非実在と知覚するようになっていくなら、そうなるのは当然のことです。
要は、コースを特別なものとはしない、ということです。
であるにもかかわらず、私たちはついコースを神聖化しようとします。
この世界の中に真理を持ち込んで、コースを偶像化して、そうすることによって、コースを学んでいるつもりでいることができるわけです。
そして、ひいては、個別の自己を保持することができるわけです。
自我はそういうことをするのだということを覚えておきましょう。
もし、コースを神聖なものとして捉えているなら、コースを理解しているとはいえませんし、コースが正しく学ばれているとはいえません。
コースが正しく学ばれているなら、コースは従来のスピリチュアルや宗教とはまったく異なるスピリチュアリティ(霊性の道)であることを理解するようになるでしょう。
さらにその学びが深まっていくならば、もはやスピリチュアルというものすらをも超越していく、つまり、スピリチュアルの終焉を迎えていくことになるでしょう。
コースはスピリチュアルのジャンルではなく、心理学です
コースの学びはじめというものは、これまでのスピリチュアルの学びと同じように、コースを学んでいきます。
それは仕方のないことだといえます。
いわゆる従来のスピリチュアルの学びのその延長として、コースはスピリチュアルなジャンルの霊性の道だと思うわけです。
ただし、コースの教えていることを真に理解していくようになると、コースはそういうものではないことが分かってくるようになります。
つまり、スピリチュアルのジャンルとはまったく違ったものであるということが分かってくるわけです。
そのことについて、ワプニック博士はこのように云っています。
「コースはスピリチュアルのジャンルに当てはまるものではありません。コースは心理学です」と。
にもかかわらず、私たちは「神聖さ」や「祈り」といった神秘性が大好きということもあって、ついコースをスピリチュアルのジャンル(枠組み)にはめ込んでしまうといえます。
それがいけないということではありませんが、せっかくそういったものから私たちを自由にしてくれるはずであるものが、まったく違うものへと成り下がってしまうだけでなく、それどころかむしろ私たちをこの世界に縛り付けることになってしまうということです。
『ア・コース・イン・ミラクルズ』という書物自体は偶像であるにもかかわらず、その内容をよく理解することなく、ただコースの本を崇拝し、神聖化してしまうなら、元も子もないということです。
コースで述べられている「神話」の信者になってしまって、自分を神聖なコース学習者としてしまい、それをアイデンティティーとしてしまうなら、コースを学んでいる意味がないというものです。
コースは本来、そういうことを目的とはしてはいません。
私たちに求められているのはコースの信者になることではありません。
学びと実践を通してコースの思考体系を完全に修得すること、最終的には、そのコースすらもこの世界に置いていくことを目的に、私たちはコースを学んでいるということを覚えておきましょう。
もちろん、コースが教えているその内容は、私たちの正気(聖霊/正しい心)の思考体系の象徴として書き記されたものであり、私たちにとって修得すべきものであることには間違いありません。
だからといって、コースをあの世に持っていけるものでもありません。
所詮、コースもこの世のものであることにはちがいはないということです。
コースの信者(信奉者)とならないように
上記でも述べましたように、コースの思考体系が修得されていくにつれて、「この世界に神聖なもの(重要なもの)など何一つない」ということが理解されてくるようになります。
言い換えるならば、そうなっていくことこそが、コース学習者の私たちが目指しているゴールであるといえましょう。
なにせ、この世界は「無」なのですから。
私たちはそのような知覚を修得していくことによって、この世界を看過して見ることができるようになることを目指しているわけです。
コースの目的は、この世界から自由になることです。
ただし、コースがあなたを救ってくれるわけではありません。
もちろん、イエス/聖霊があなたを救ってくれるのでもありません。
救ってくれる誰かがいるのではありません。
これは、自分が誰なのか?を思い出していく道以外の何ものでもないということです。
私たちはコースの信者(信奉者)になるのではなく、コースの実践者(生徒)としてあるべきです。
かくいう私も、もちろんその学びのプロセスの途上にいるわけですが、コースを神聖化、崇拝化、偶像化、儀式化することがないように注意深く警戒していくべきだと思う次第です。