コースは自分の人生をより良くすることとは一切関係ありません
コースの実践を通して私たちが目指しているものとは
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学びはじめるきっかけは、みんなそれぞれにあるといえます。
それでも共通して言えるのは、幸せになりたくて、人生をどうにかしたくてコースを学びはじめるわけです。
ただし、残念なことに、コースの学びが深まっていくうちに分かってくるのは、人生が幸せであろうがなかろうが、人生が良くなろうがならまいが、コースはそういうこととは関係がないということです。
むしろ、そういうものから完全に解放されていくこと、この世界のあらゆるものから自由になっていくこと、それがコースの目的なのだということです。
言い換えるならば、コースという霊性の道は、この世界も、人生だと信じているものも、そのすべてが非実在で、無意味、無価値なのだということを受け入れていく道である、と言うことができます。
さらにいえば、この自分だと信じている自分も非実在であることを受け入れていくことになります。
それは、私たちにとってなかなかどころか、とても受け入れ難いことです。
そういうことから言えば、コースは誰もに奨められるようなスピリチュアリティではないといえましょう。
コースは、誰もが学ぶようなスピリチュアリティではないということです。
ですから、この人生をハッピーに生きていきたいと思っているとしたなら、人生をもっとより良いものしたいと望んでいるのなら、コースを学ぶことはお奨めできないということです。
コースはそのような類のスピリチュアリティではないからです。
そのような気持ちでコースを学ぶのであるのなら、コースを学んでいくことは無理だといえるでしょう。
無論、本気でないなら、趣味程度でコースを学ぼうとするのなら、そもそもがとても難解なコースを学ぶ必要などないというものです。
コースを真摯に学んでいこうとするとき、そしてコースが教えていることを理解するようになるとき、今まで信じていた(価値を置いていた)それらすべてがまるで取り上げられるような感覚を覚えることでしょう。
コースは「この世界には愛も希望もありません、この世界には神もいなければ、救いもありません」ということを教えているわけで、コースを学んでいくならこの世界に絶望していくことになるでしょう。
ましてや、愛の障壁(罪、罪悪感、恐れ)を見つけ出していく、いわゆる、見たくないものとしてきた闇、苦痛、苦しみと向き合っていくわけです。
ですから、よほどの覚悟がないかぎり、本気でないかぎり、生半可な気持ちではとうてい取り組むことなどできるものではないといえます。
コースの学びはそう容易い道ではないということです。
とは言いましても、うれしいニュースとして言うならば、このコースを妥協なく真摯に学んでいくならば、それらを超越して、それらすべてを平安と共に見ることができるようになるでしょう。
そのすべてが幻想のドラマをただ信じていただけだった、すべてが虚偽だったと理解することになるでしょう。
そこから見ている知覚を、コースでは、「聖霊のヴィジョン」「赦しのまなざし」と呼んでいます。
そこから見るとき、自分だと思っていた「個人の自分」は心が投影した影にしかすぎないと認識されるだけでなく、個人の自分も、この世界も、他者も、実在していない影(虚偽)だということが体験的に理解されます。
そう、その知覚を修得していくことが「赦し」であり、それが、コースの実践を通して私たちが目指しているものだということです。
コースは、学ぶか?学ばないか?そのどちらかしかありません。
中途半端に学ぶとしたなら、妥協して学ぶとしたなら、それはコースを学んでいないのと同じです。
このコースは、この世界を超えていく道であり,
それは、自己を超えていく道であり、
それは、肉体を超えていく道であり、
それは、死を超えていく道であるわけですから、
そう容易く気軽に学んでいけるような道ではないということです。
厳しい言い方をするなら、コースは中途半端では学べませんということです。
でも、本気で学びたい、そして、本気でこの二元性の世界から目覚めたいと望んでいる探究者にとっては、
その道はここにあると言うことができます。
このコースは二元性を超えたところへと導いてくれる確実な道です。
コースというスピリチュアリティは、そういう霊性の道です。
そう、このコースは、この世界を、この人生をより良きものにしていくための道とは一切関係がないということをしっかりわきまえて学んでいきましょう。
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