その愚かさを認識しない限り、どうやって闘いを終わることができるというのでしょう
誰もが自分と闘っている
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えていることの理解が深まっていくにつれて、私たちは誰もが「殺すか殺されるか」という「神との闘い」をしているということが分かってきます。
私たちはその「神との闘い」をこの世界に投影しているだけであり、人や出来事や状況を変えて、ただそれを繰り返しているだけなのだといえます。
その「神との闘い」とは、つまるところ、「自分との闘い」なわけです。
自分と闘って、自分を攻撃して、自分を傷つけている、、、それが私たちがここでしていることです。
外側には誰もいません。
他者がいません。
世界もありません。
本当は、闘う相手などいないのです。
コースの実践を通して、「すべてが投影である」と気づいていくにしたがって、自分は自分自身と闘っていた、自分は自分自身を攻撃していたのだと認識できるようになっていきます。
しかも、それがやめられないのも自覚していきます。
自分に対して怒り、裁き、攻撃して、、、それが反転したならば、こんどは自分がその被害者、犠牲者となって罪悪感、恐れを感じて、、、といった具合に、加害者と被害者のゲームをしているだけです。
なんとも狂気な世界(玩具/ゲーム)を私たちは作り出したものです。
その闘い(ゲーム)に本気で疲れ果てた者たちが、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)という霊性の道を学びはじめるのだといえましょう。
そして、コースが教えていることの理解が深まっていくとき、自分が何をしているのか?をはっきり自覚/認識できるようになるといえます。
自分は自分と闘っているだけで、自分が自分自身を傷つけているだけだと、その狂気さ、愚かさを自覚していくならば、誰もがそれをそのままでOKとはしないでしょう。
言い換えるなら、私たちはその真実を自覚/認識していないからこそ、終わりなき闘い(ゲーム)をし続けることができるのだといえます。
仏教では、それを「根本無明」と呼んでいます。
私たちは、まさに光(明かり)を忘れた状態になっているということです。
ですから、私たちは、その真実をもっと自覚/認識していくことが求められているわけです。
その実践こそが、自我を直視する、というものです。
私たち(自我)は何をしているのか?
この悪夢の中の戦いを、自分が好んで、自分で自分に行っていることを直視していくということです。
その自分(自我)は、まさに狂気でしかありません。
その愚かさを自覚/認識しない限り、誰がどうやってこの狂気のゲームを終わらせることができるというのでしょう。
そのためには、自我というものを、そして、自我が何をしているのかを直視(正視)していく必要があるわけです。
しかも、自我を裁きの目で見るのではなく、「これは自分が見たくて見ている夢であり、しかもその内容は真実ではないのだ」というところから見るということです。
コースで呼んでいる「奇跡」とは、そういうものです。
それは、「すべては虚偽である」という真実を認識することをそう呼んでいるわけです。
そして、そのときにもたらされる知覚を、「赦しのまなざし(ヴィジョン)」と呼んでいます。
そのときが、本当の意味での闘いが終わるときです。
何も起きていない、何もしていない、ということが明らかになるからです。
ようするに、私たちはコースの学びと実践を通して、つまり、「奇跡」という手段を通して、その知覚(赦しのまなざし/ヴィジョン)を修得していくことを目的としているということです。
だからこそ、この霊性の道が、『ア・コース・イン・ミラクルズ(奇跡のコース/奇跡の道/奇跡講座)』と呼ばれる所以なのだということを覚えておきましょう。