イエスや聖霊が見ているもの
自我を咎めずに見る
コース(奇跡のコース/奇跡講座)の実践で私たちは「自我を咎めずに見る」という実践をしていくわけですが、
自我を咎めずに見るとは、いったいどういうことを言うのでしょう?
「咎めずに」とは、つまり、「ジャッジ(価値判断)なしに」ということです。
ただし、ジャッジなしに見るためには、すべてを全一に虚偽(幻想)として見る以外にないということです。
そのように見ることのできる視点こそが、すべてを包含して見ている心の自分、つまり、「夢を見ている者」の視点なわけです。
そこは「いまここ」「決断の主体」と呼ばれており、いわゆる、夢の外、時空を超えたところの視点です。
それは、思考(考え)が沸き起こる一瞬前、あるいは、思考と思考の一瞬の隙間とも言い換えられます。
そこから見るとき、そのすべてが虚偽だと認識できます。
そう、すべてを包含して幻想(虚偽)として見えるなら、どうしてそこにジャッジ(価値判断)というものがあるというのでしょう。
つまり、イエス(聖霊)はその視点から見ているということです。
そして、私たちはその視点から見ることを修得するのを目指しているのだといえます。
その訓練をコースでは、「聖霊と共に見る」「聖霊を教師とする」という言い方をしています。
ただし、私たちは夢の中にすっかり入り込んでしまって、その視点がどこにあるのか?まったく忘れて、分からなくなってしまっています。
ですから、コース学習者の私たちは学びと実践を通して、まず、その視点を思い出していく必要があります。
そのためには、当然、コース形而上学(コースの思考体系/聖霊の思考体系)というものを理解するだけでなく、実践していくことが必然であるというのは言うまでもありません。
奇跡とは訂正である
このコースは、自我の思考体系から完全に脱却していくことを目指していると言うことができます。
つまり、それを言い換えるなら、聖霊の思考体系への完全なる同一化を目指しているということです。
自我の思考体系から完全に脱却することと、聖霊の思考体系への完全に同一化することは、どちらも同じことを意味しているということを知っておきましょう。
そして、学びのプロセスにおいては、双方の思考体系を行ったり来たりしながら学んでいくということも知っておきましょう。
聖霊の思考体系(正しい心/クリアなマインド)から見るならば、見ているすべてが一様に「起きることが起きているだけ」というふうに平安と共に見ることができます。
というのも、それらはすべて自分が見たくて見ている夢である、と分かっているからです。
それを。コースでは「奇跡」と呼んでいます。
そう、私たちは「奇跡」という手段で、この世界を夢として、非実在として見ていく訓練をしていくのだということです。
奇跡とは、まさに訂正です。
それは、誤りを訂正していくということです。
誤りとは、自分が自分で願望して夢を見ているということです。
そのことを認識することが、私たちに求められているわけです。
それは、自分はけっしてこの世界の被害者ではない(W^p1.31)ことを思い出していくことでもあります。
自分はこの世界の被害者ではなく、自分で自分にこれを行っているだけだと認識するとき、もはや深刻さは消えてなくなり、平安がそこにはあります。
そうなるとき、何の問題もなかったことが明らかになります。
そこから見るならば、自分(自我)が何をしていたのか?がよく理解できます。
そう、自分が「夢を見ている者」であることがはっきりと自覚されます。
そこから見るとき、私たちは自我を何の咎めなく見ることができます。
そして、その知覚(真の知覚)こそが、イエスや聖霊が見ているもの(知覚)だとはっきりと分かります。
「赦しのまなざし」「愛のまなざし」「聖霊の視点」「ヴィジョン(心眼)」というものは、そのような知覚であることを知っておくと良いでしょう。
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