闇を通り抜けていかないかぎり、光に到達することはできない
ラディカルな霊性の道
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)がどういうものであるか?
その内容を真に理解するならば、コースを喜んで学ぼうとする者はほとんどいないと分かるでしょう。
ようするに、このコースは誰もが歩むような霊性の道ではないと分かってくるということです。
というのも、このコースは、罪悪感、恐れといった無意識に隠された心の闇の部分と向き合っていくことが求められているからです。
私たちはその闇を通り抜けて光に到達しようとしているのであり、コースはそのような霊性の道なわけです。
それが何を意味するのか?というと、
愛や光は闇を取り抜けたところにあるのであって、それ以外のところにはないということです。
つまり、闇のあるところ以外に愛や光をいくら探しても、本当の愛や本当の光に到達することはあり得ないということです。
言い換えるなら、闇を通り抜けていかないかぎり、その闇が自分ででっち上げたものであるということはけっして明らかになることはないともいえます。
ですから、コースの学習者である私たちは闇を直視していかなければならないということです。
そういうことから申しましても、コースはやはり楽しく、気楽な霊性の道だとはけっして言えないでしょう。
もっといえば、コース学習者はとんでもない霊性の道を歩んでいると言うことができるでしょう。
その「とんでもない霊性の道」ということでいば、ワプニック博士もコースについて「ラディカル(急進的/過激な)」という言葉を使って表現しています。
「このコースはラディカルな霊性の道です」と。
もしもはじめからその教えの内容が分かっていたなら、ほとんどの誰もがこの道を歩もうとはしないことでしょう。
それが、コースを理解するようになったときのコース学習者の正直な感覚だといえます。
逆にいえば、コースはそういう霊性の道であるということが分かっていないのであるならば、それはコースが正しく学ばれていない、あるいは、コースの教えを正しく理解していない、というふうに言うことができましょう。
つまりは、コースを真に理解しているコース学習者は、コースはそんな容易い道ではないことを分かっているということです。
そうであるがゆえに、彼らは、コースについてけっして甘口なところだけの表現をしたりはしないどころか、むしろ、コースについての辛口な厳しい部分の表現をするはずだといえましょう。
コースの学びを通して本気で目覚めていきたいのであるならば、そういうことを知っておくと良いでしょう。
探せよ、されど見つけることなかれ
私たちは、なるべくなら辛口の言葉など聞きたくはないものです。
それよりも、美辞麗句に酔いしれていたいものです。
それは、コースの学びと実践ついても当てはめることができます。
なるべくなら自分の内側の闇の部分は見たくないし、闇を見ないでどうにか光や愛に到達できないかと思うわけです。
さらにいえば、闇を直視せずに、自我を直視せずに、この世界の夢から目覚めることができるのではないかとさえ思っています。
それが私たちであり、それが自我というものです。
自我の策略は、まさに、「探せよ、されど見つけることなかれ」なのです。
そのために自我は何をするか?
というなら、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の教えすらをも使って、個別性、特別性を維持しようとするということです。
その典型的な例が、コースの教えを歪曲して自分の都合いいように学んだり、あるいは、コースを神聖な教えというふうにしてしまうというケースです。
コース学習においてそういうことが頻繁に起きているにもかかわらず、それでも自我は巧妙極まりなく、なにせ、本人はコースをちゃんと学んでいるつもりでいるので、自分がコースを都合のいいように学んでいることにすら気づくことができないのです。
というのも、かつての私もそうだったので、他人事ではないということです。
そのことについては十分すぎるほど警戒していかなければならないことだといえましょう。
ちなみに、そういうことに気づけるようになるには、やはりワプニック博士の教材で学ぶのが一番良いと言いましょうか、ワプニック博士の教材で学んでいかないかぎり、そういうことに気づいていくのはかなり難しいといえましょう。
私たちが自覚/認識しなければならないのは、私たちは今や自我と同一化してしまっていて、コースを学んでいるつもりでいながらも、そしてコースを実践しているつもりでいながらも、実際は、まったくコースを通して目覚める気などないということです。
それが、自我というものです。
そして、その自我と同一化しているのが、私たちです。
そのことを自覚/認識していかないかぎり、自我からの脱却、つまり、光に到達することはけっしてあり得ないといえるでしょう。
でも、そのことを自覚/認識して、聖霊と共に見ていくならば、それが何の問題もないということが分かってきます。
それが、自我を咎めずに見ている状態です。
そのようにして、自我となってしまっている私たちは赦されていくのです。
そう、そのための実践が、「赦し」です。
自分の外側にコースを歪曲しているコース学習者を見たとしても、あるいは、コースを神聖なもの特別なものとしていたとしても、それが咎めの理由にはなりません。
この自分も含めてこの世界にいる私たちみんながしていることだと分かるならば、それが咎める理由になるでしょうか。
それは、そもそもがここにいる私たち全員が自我なのだということを自覚/認識していくことを意味します。
そうしていくならば、もはや誰かを裁くことも咎めることもできないことが分かるだけでなく、ここ(外側の世界)には誰もいない、自分ひとりしかいないということが分かるようになるでしょう。
そうなるとき、それらすべてを看過していくようになるだけでなく、そこには目覚めていくために愛(聖霊/キリスト)が臨在しているのを知覚するようになります。
自我を咎めずに見ていくことで、知覚はそのような見方へとシフトしていくということです。
そう、そのためには、その源である自分の内側にある闇を直視して、その闇を通り抜けていく必要があるということです。
コースの実践で私たちがしていかねばならないのは、そのような訓練だと知っておくと良いでしょう。