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わかっちゃった!?とはいえ、それがゴールではありません
「わかっちゃった」ということが目覚めではない
非二元(ノンデュアリティ)や悟りについて語るとき、「わかっちゃった」とか「わかちゃった人」という表現がなされたりしています。
「わかっちゃった」とは、私は目覚めた、私は悟った、ということなのでしょう。
いわゆる、それを、「一瞥体験」「見性体験」とか、と呼んだりします。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では、それを「啓示体験」と呼んでいるわけですが、ただし、コースではそれを「目覚め」とは呼んではいないということを知っておきましょう。
つまり、そのような一時的な体験は、悟りでもないし、目覚めでもないということです。
コース学習者にとっては、それがゴールではないということです。
もっと具体的に言えば、すべての苦しみから完全に解放されているなら別ですが、そうでないならば、つまり、この世界のことで動揺することがあるならば、まだまだ私たちは訓練すべきことがあるということです。
夢がもはや自分に影響を与えるわけがないと真に知る(悟る)まで、何が起きようとも平安で見ることができるようになるまで、その訓練は成されなければならないということです。
そして、コースはそれを目指している霊性の道なのだということです。
そのような観点から見たとき、「わかっちゃった人」には二通りのタイプに分けられる、もしくは分かれていくと言うことができます。
一方のタイプは、この世界は夢だと分かったとしても、またこの世界の夢の中に埋没していく「わかちゃった人」と、
そして、もう一方のタイプは、本気でこの世界の夢から脱却して目覚めようとする「わかっちゃった人」とに分けられるということです。
前者は、探究がそこでストップして、ハートが閉じる方向に向かっていきます。
一方、後者は、さらなる探究へと次元上昇していくとともに、ハートが無限に開いていくことになります。
要は、「わかっちゃった」となってしまうなら、心(ハート)が開かれていくことはないということです。
たとえ「わかっちゃった」という体験をしたとしても、その体験すらも夢の中で起きたことにすぎないということを知っておかなければなりません。
つまりは、「わかっちゃった」も「わかちゃった人」も、それすらも幻想だということです。
中には、「わかっちゃった」という体験を、その後の人生において持ち歩く人もいたりします。
いわゆる、そういう人を「わかちゃった人」というふうに呼んでいるわけです。
でも、そうなってしまうならば、
「すべてが夢であり、何も起きていない」
ということをもはや忘れてしまっていると言うことができます。
「わかっちゃった」という個人の体験をこの夢の世界の中でいつまでも大事に持ち歩いたとして、何の価値があるというのでしょう。
むしろ、そうすることによって、より個人の自分に縛られて、そしてよりこの世界の夢の中に根差していくことになるだけです。
そういうことで言うなら、「わかっちゃった」というそこからが、悟りの完成へのはじまりだと言うことができましょう。
というのも、これが夢だといくらわかったとしても、まだまだ動揺はし続けるからです。
外側のものによって動揺するということは、つまり、いまだ夢から自由になっているわけでもなければ、夢を夢だとは思っていないことを意味するからです。
この世界の夢から自由になるとは?
ということについて私たちはよくよく考えてみる必要があります。
そのことについて私たちは学んでいく必要があるといえます。
この世界の夢から本気で目覚めていきたいのなら、そうなっていくためにはこの世界のものを超えていく訓練をしていく必要があるわけです。
体験とは過去のものです。
つまり、この世界のものです。
ようするに、「わかっちゃった」だけでは、まだ目覚めたわけではないということです。
その体験が無意味だとは言いませんが、むしろ、そこからが本当のゴール(悟りの完成)へ向かうはじまりだということを知っておくべきだといえましょう。