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自分自身との闘いに疲れ果てた者たちにとって、コースはその闘いを終わる方法を示してくれている


あなたの武器を捨てなさい

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)が教えていることの理解が深まっていくにつれて、自分たちは常に神と闘っているということが分かってきます。

もっといえば、その神とは真の自己なわけで、じつのところ、私たちは自分自身と闘っている、自分自身を傷つけているということを理解するようになります。

そして、私たちはそれをこの世界のあらゆるもの、こと、ひとに投影しているだけで、それが私たちがこの世界でしていることなのだと分かってきます。

私たちはそれを「人生」と呼んでいるわけです。

つまり、生きることが、闘い、争いになってしまっているのです。

今や私たちは戦場にいながら、まったく心休まることがありません。

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)は、そんな闘いにもはや疲れ果て、本気で闘いを終わりたいと望んでいる者たちにとって、その戦いを終わる方法を示してくれている霊性の道だと言うことができます。


あなたの武器を捨てなさい。そして、天国の平安がついにすべてのものを静かに包み込む静謐な場所に、防衛することなく入ってきなさい。 (W-pⅠ.190.9,1)

奇跡講座/中央アート出版社


コースの中でイエスは、武器を捨てて戦いを終えなさい!と私たちに告げています。

それが意味するのは、ようするに、私たちは武器を振りかざして闘い続けているということです。

そして、闘っている相手とは、まさに自分自身なのだということです。

私たちはまずそのことを自覚/認識しなければならないといえます。

でなければ、闘いを終わることなどできないということを肝に銘じておきましょう。


その想いは誰に生じたのか?問いかけなさい

コースが教えていることが理解できるようになっていくと、自分たちがどれだけ攻撃や裁きを無自覚にやり続けているか!攻撃や裁きが止められないか!ということが自覚できるようになってきます。

そこで私たちがついやってしまいがちなのが、攻撃しない自分になろう、裁かない自分になろうとして、その自分(自我)をより良き自分(自我)に変えようとするということです。

つまり、「攻撃しない自分にならなきゃ、裁かない自分にならなきゃ」というふうにその自分を咎めてしまうのです。

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践で私たちがしていくのは、そういうものではないということを知っておきましょう。

もちろん、攻撃、裁きというものは正当化できるものではなく、なるべく攻撃しない、裁かないことに越したことはありません。

コースの実践で私たちがしていかなければならないのは、その自分(自我)を咎めずに見るということです。

それをコースでは、聖霊と共に見るという言い方をします。

ようするに、間違った「心」の視点からではなく、正しい「心」の視点から見ることをしていくということです。

コースは、いわゆる「間違った心」から「正しい心」へと「心」を変えることを目指しているのだということです。

「心」を変えるとは、知覚を訂正するというふうにも言い換えられます。

別の言い方をするなら、教師を変える、ということであり、つまり、自我を教師とする代わりに聖霊を教師とするということです。

そうするとき、「知覚の訂正」がもたらされます。

それをコースでは「赦し」あるいは「奇跡」と呼んでいます。

重要なことをもう一度繰り返すならば、いくら個人の自分をより良き自分に訂正しようとしても、それでは何の解決にもならないし、それがコースの実践でしていくことではないということです。

むしろ、個人の自分を変えよう(より良い人になろう)とするならば、自分自身を咎め、裁くことになるだけでなく、葛藤や罪悪感を強めることになり、分離の想念(自我の思考体系)になおさらパワーを与えることになるということを覚えておきましょう。

攻撃、裁きのストーリーから抜け出すためには、「自分はこの世界にいる」「自分は肉体(人間)である」と信じているその自分こそが自我(非実在)なのだと思い出すことです。

それにちなんで、ラマナ・マハルシは、
「その(攻撃、裁きの)想いは誰に生じたのか?問いかけなさい!」
というふに教えてくれています。

ポイントは、その自分(自我)は攻撃、裁き、戦いをやめることはないということをしっかり理解しておくことです。

自我は、闘うこと争うことことをけっして止めようとはしませんし、これからもずっとこの時間の中で旅を続けていたいわけです。

「自我とはそういうものである、でも、その自我こそが実在しないのだ」ということが分かっているならば、もはやそれが問題ではなくなるということです。

それが私たちが学ぶべきものであり、やがては攻撃、裁きを使って、「自分は自我になっている」ということを思い出すきっかけとしていくようになるといえます。

ですから、コースの実践は、自分(自我)がしていることを咎めずに見ることをしていくということです。

それが、自我を咎めずに見る、という訓練なのだということです。

そして、それが、聖霊と共に見る、自我を聖霊のもとに運ぶということなのだということです。

さらにいえば、私たちは自我(の思考体系)を咎めずに見ていくだけでなく、その代償も見ていかなければならないということも覚えておきましょう。

裁くこと、攻撃することがいかに自分自身を傷つけているか、それがいかに自分自身に苦痛、苦しみをもたらすことになるか、についてもしっかり認識していくことが求められているということです。

というのも、そういうことを認識することなしに、「武器を捨てて闘いを終える」なんてことはあり得ないからです。

でも、自我がしていることのその「愚かさ」を認識していくとき、そして、その愚かさによってもたらされる「代償」を認識していくとき、私たちはもはやそのことを容認しなくなります。

そうしてはじめて、武器を捨てて闘いをやめる、つまり、自我の思考体系を信じるのをやめて、正しい心(聖霊の思考体系/正気)に戻ることを本気で意図するようになるのです。

コースの歩みはそのようにして、一歩一歩、前に進んでいくのだということを知っておくと良いでしょう。


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