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何の希望もないところに希望を託せば、あなたは必ず絶望させられる

けっして満たされることのない世界

私たちは、この世界には自分を満たしてくれるものがあると信じています。

そのように信じて、私たちはこの世界に希望を探して生きています。

でも、人生はそう上手くはいかないことを経験していきます。

というのも、真理から見るならば、そもそもこの世界自体がそのようになっているからです。

私たちが知覚している世界は、神のいない世界なわけであり、つまりは、絶望の世界と言っても過言ではありません。

けっして満たされることがない世界が、この世界なのだということです。

それが、純粋な非二元の教えであり、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えていることです。

真理から見るならば、私たちが知覚しているこの世界は天国とは真反対(対極)の世界なのだということです。

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)では、そのことについて以下のように述べています。


あなたが依然として、自分が見ている世界から何らかの満足を得られるという希望を抱き続けているのは、奇妙なことではないだろうか。 いかなる点についても、いかなる時や場所においても、これまで恐れと罪悪感以外の報奨があなたに与えられたことはなかった。 この点において変化が起こる見込みは、もっと良い結果をもたらしそうな変化を遅らせてまで待つほどのものではないとわかるまでに、あなたにどれほどの時間が必要なのだろう。 次のことだけは確かである。 あなたがものごとを見ている見方、そしてこれまでも長い間見てきた見方によれば、あなたの未来に希望を抱くべき拠り所となるものや、成功の兆しを示すものはまったく見あたらない。 何の希望もないところに希望を託せば、あなたは必ず絶望させられる。 だが、かつて希望が見いだされたことのないところに希望を探し求めようとしている間は、この絶望感こそが、あなたが選択しているものである。(T-25.Ⅱ.2)

奇跡講座/中央アート出版社


この世界には希望などないにもかかわらず、希望があるかのように見えています。

この世界は実在していない幻想であるにもかかわらず、この世界が現実であるかのように見えています。

この世界は無であるにもかかわらず、この世界に意味、価値があるかのように見えています。

まともに考えるならば、私たちはこの世界でいかに奇妙なことをしているか!ということは明らかです。

だからこそ、コースは、 ”何の希望もないところに希望を託せば、あなたは必ず絶望させられる”(T-25.Ⅱ.2:5)と、私たちに教えてくれているわけです。

そして、私たちがまとも(正気)に戻っていくならば、私たちは真実を悟る(思い出す)ことができるとも、コースは教えてくれています。

そのための実践が、聖霊と共に見るという赦しの実践なわけです。

赦しの実践を通して聖霊の視点(赦しの視点)から見るとき、私たちがこの世界でしていることがいかに愚かなことであるかが分かります。

そのようにして私たちは正気(正しい心)を取り戻していくことを試みているのだということです。


私が見ているこの世界には、私が望むものは何もない。(W-pⅠ.128)

奇跡講座/中央アート出版社


その声明文は、私たちにとっては絶望感を抱かせるものです。

でも、言い換えるなら、それは、「私が望むものはこの世界を超えたものである」ということを声明するものであるいえます。


この世界を超えたところに、私の望む世界がある。(W-pⅠ.129)

奇跡講座/中央アート出版社


もしこれらの声明文に絶望しているとするならば、絶望しているのは「自我」なのだということを自覚/認識しましょう。

たしかに、自我にとって、それは受け入れ難いことです。

逆に、正気(正しい心)から見たならば、それは祝福の声明であるわけです。

でも、実際は、自分自身に正直になるならば、それらの声明(W-pⅠ.128,W-pⅠ.129)に対して絶望や恐怖の感覚を覚えるのを自覚することでしょう。

つまりは、その自分はもはや正気ではないということです。

つまり、自我と同一化してしまっていて、自我になってしまっているということです。

「正しい心/正気/聖霊」から解離して、天国(実相)の記憶をすっかり忘れてしまった状態になっているということです。

私たちは、毎瞬毎瞬、天国の記憶を覚えている自分(真の自己)を拒絶し続けているのです。

本当の真実はこの今も天国のワンネスの中にいるというのに、です。

本当はどんなに愛に満ち溢れていたことか!

本当はどんなに永遠の至福の中で幸せだったことか!

どんなに平安だったことか!

どんなに完全だったことか!

もはやその記憶は、すっかり忘れ去られています。

「この世界の中に重要なものがある、大切なものがある」と思っていることが、まさにそういうことです。

つまりは、「天国のワンネスよりも、天国の愛よりも、この世界のほうが大事だ!重要だ!」と、してしまっているということです。

この世界が大事だ!重要だ!としているかぎり、誰がこの世界を手放して(放棄して)、この世界を超えたところにあるものを望むことなんてできるでしょう。

この世界を手放せるようになるには、それが無価値で、無意味であることを知る(悟る)以外にありません。

私たちは学ばなければならないのです。

そのために私たちはコースを学んでいるということです。

そして、その実践的な手段が、「赦し」です。

赦しの視点(決断の主体)に立ち戻っていく訓練を通して、すべてが虚偽(無)であることを学んでいかなければならないということです。

そこから見ている視点が、聖霊(正しい心)と共に見ている視点です。

そこには、この世のものを超えた平安(愛)があります。

なぜ、それはこの世のものを超えているのか?

というなら、

この世界とはまったく関係なく、一切の影響を受けることのない平安だからです。

私たちは、その聖霊の愛(神の平安の反映)に触れていくにつれて、ますます、それを望むようになっていくようになるといえましょう。

いわゆる、この世界を超えたもの(愛/平安)だけを望むようになるということです。

そう、私たちが本当に望んでいるものはこの世界にはない、ということをますます認識していくようになります。

そのようにして、私たちはこの世界から解放され自由になっていくということです。

私たちが自覚しなければならないことは、「本当は天国のほうが実在であり、いま見ているこの世界は妄想が投影された影にしかすぎない」ことを忘れてしまっているということです。

だからこそ、私たちには学びとレッスンが求められているのです。

上記からも分かるように、ワークブックのレッスン128レッスン129は、セットで学んでいくと良いでしょう。

私たちが学ばなければならないことは、「この世界に絶望する、この世界を放棄する」ということが、じつのところ「天国に希望を見出す、天国に光を見出す」ということなのだということです。

この世界か?天国か?

幻想か?真理か?

その二つの選択肢において、それらは相互に排他的であるということです。

そのような考え方をしていくことは、コースを実践していく上でとても重要であるだけでなく、必須であるということを覚えておきましょう。


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