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「無知の知」こそが、私とは何か?を知るためのその第一歩である

自分は何も分かっていないことを悟る

自分は何も分かっていない。

そのことを受け入れることは自分を知るために大事なことだといえます。

いにしえの賢者ソクラテスは、それを「無知の知」と表現しました。

この私自身、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)についてあたかも分かったふうなところから物申しておりますが、真実を知れば知るほど、自分は何も分かっていない、ということが分かってくる次第です。

まったく笑えます。笑

コースを学びはじめて十数年。

結局、コースで何を学んだのか?

というなら、まさにこのことだったのだと。

何も分かっていない、ということです。

つまり、自分が分かっている、知っていると思っていたものはすべて嘘を信じていただけだったということを、理解したということです。


私は私であるものを知らない。だから、私が何をしているのか、どこにいるのか、あるいは、この世界や自分自身をどのように見たらよいのかも知らない。(T-31.Ⅴ.17:7)

奇跡講座/中央アート出版社


そのことを知る(悟る)ときに、私たちはようやく学ぶことができるようになるといえます。


自分自身の最善の利益を知覚していないと気づいたなら、あなたはそれが何なのかを教わることができるようになる。しかし、自分はそれを知っているという確信が存在する間は、あなたは学ぶことができない。(W-pI.24.2:1-2)

奇跡講座/中央アート出版社


「この自分は何も分かっていないのだ」と、そのことを理解するとき、「自分には、自分を超えた存在(自我ではない存在)が教師として必要なのだ」ということが分かります。

そして、コースでは、その教師をイエス/聖霊と呼んでいるわけです。

その教師は、明らかにこの世を超えたものであり、その呼び名は本当は何だっていいのです。

大事なのは、自分は無知(狂気)である、と知ることです。

そのことを知る(悟る)とき、イエス/聖霊を自らの教師としていくことができるようになります。

私とは何か?について、その学びがはじまるということです。

逆に言い換えるなら、私とは何か?ということについて自分は分かっていると思っているかぎり、私たちはどうやって自分の本性について教えてもらうことなどできるというのでしょう。


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