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「愛する」とは?

「愛」をこの世界に反映したものが「赦し」である

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)で「愛する」というとき、それは、「赦す」ということなのだと、私たちは知っておく必要があるといえましょう。

というのも、私たちは、愛を知らないからです。

私たちは、愛するということを知らないからです。

なぜなら、愛は実相、天国に属するものだからです。

もっといえば、この世界自体が「無」であるわけで、この世界の中に愛があるわけがありません。

では、愛するとはどういうことをいうのか?

というならば、

「無」であるものを「無」としていく、つまり、虚偽を虚偽としていく、

ということです。

それが私たちにできることであり、それをコースでは「赦し」と呼んでいるわけです。

つまり、コースの学びと実践において私たちが「愛する」と言うとき、それは「赦す」という意味なのだということを覚えておくと良いでしょう。

私たちは都合の良いようにこの世界の中に「ニセモノの愛」を持ち込もうとします。

なので、私たちが学ばなければならないのは、「愛」とは実相に属するものであり、それをこの幻想世界に反映したものが「赦し」なのだということです。

ですから、「兄弟を愛しましょう」というとき、それは「兄弟を赦しましょう」ということであり、

つまり、それは、兄弟も、この自分も、さらにはこの世界も、等しく同じ(非実在)として見ることだということです。

そう、イエス/聖霊はそのように見ているのであり、それが私たちが訓練を通して修得していく知覚なわけです。

すべてを等しく一様に実在しないもの(虚偽)として見るとき、私たちはそれらを看過した向こう側に愛の臨在を知覚するだけでなく、その愛に触れるようになります。

その愛(神の平安)に触れているところから見ている自分は、幻想の夢の外側にいるということを認識しています。

つまり、「心の決断の主体」であることを自覚しているのです。

(ちなみに、イエスがコースの中で語りかけている「あなた」とは、夢(時空)の外側にいるその「あなた」に語りかけているということです。)

そこから見ている視点が「愛のまなざし」「赦しのまなざし」と呼ばれているものです。

そして、それが「聖霊と共に見る」ということです。

聖霊は愛の存在であり、愛からすべてを見ているわけですから、ならば、聖霊と共に見るということが「愛する」ということであるわけです。

逆にもし、「すべてを愛する」のではなく、ある特定の誰かを愛そうとするのであるならば、いわゆる、この世でいうところの愛し方をしようとするのであるならば、愛そうとしている人以外を除外してしまうことになるわけで、それは愛ではなくむしろ分離(裁き)であると知っておきましょう。

コース学習者である私たちは、兄弟を愛しましょう、自分を愛しましょう、という実践をしていくときに、その意味をちゃんと理解しておく必要があるということです。

そうでなければ、むしろ、分離を強化していくことになりかねません。

ですから、そうしないためにも、「愛すること」についてそして「赦し」についてしっかりと理解しておくことが求められますし、そのためにはコースの思考体系(形而上学)の学びと理解を深めていくことがとても重要であるということを肝に銘じておきましょう。


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