私たちが目指している「目覚め」「真の幸せ」とは
自我からの脱却、苦しみからの脱却
自我が愛おしく愛すべきものとしてみえるならば、もはやそれは「自我」だと呼べるのでしょうか?
あるいは、
苦しみがありがたき愛おしいものと知覚されるなら、もはやそれは「苦しみ」と呼べるのでしょうか。
一元論のスピリチュアリティを探究している者たちにとって、
「自我からの脱却」「苦しみからの脱却」
という言い方をしてきたわけですが、
ちょっと、その表現は私が実感しているものとは少し違うように思います。
自我からの脱却、苦しみからの脱却ではなく、
自我の終わり、苦しみの終わり、という言い方をしたほうが正確な表現だと思うのです。
それは、
自我の不在、苦しみの不在、と言うこともできますし、
自我の消滅、苦しみの消滅、と言うことができます。
それは、もともと「無」でしかなかったものを「無」だと知覚するということです。
つまり、私たちが目指している「目覚め」「真の幸せ」とは、そういうものであると言うことを知っておくと良いと思います。
そうでないかぎり、「無」でしかない実在しないものと格闘する幻想ストーリーはけっして終わらないと知っておかれると良いでしょう。