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「混沌の法則」について

混沌の法則の第一原理「幻想に順位がある」

目に見えている世界を信じているなら、もちろん、違い、差異を知覚することになります。

これは良くてこれは良くない、これは得でこれは損、これは正しくてこれは間違っている、これは価値があってこれは価値がない、、、などなど。

本来はすべては等しく同じ幻想であるにもかかわらず、私たちはまったくそのようには知覚していないわけです。

つまりは、「幻想に順位がある」として見てしまっているわけです。

それによって、私たちは幻想に混乱させられていると言うことができます。

そういうことについてコース(奇跡のコース/奇跡講座)のテキストの中に詳しく述べられている箇所があります。

それが、テキスト23章の「Ⅱ.混沌の法則」というセクションです。

そこでは5つの混沌の法則について述べられており、その混沌の法則の第一原理(T-23.Ⅱ.2)が、「幻想に順位がある」というものです。

そこで、私たちが覚えておくべきことが、それに対しての訂正となるものが、奇跡の第一原理である「奇跡に難しさの序列はない」(T-1.Ⅰ.1:1)というものです。

私たちはその奇跡の第一原理に則った知覚を修得していくためにコースを学んでいるということです。

つまりは、すべてを「どれも同じ幻想」として見る訓練をしていくということです。

どんな人も、どんなものも、どんな事柄も幻想は幻想であるということ、幻想に差異、順位はない、というふうに見ていくことが、私たちがしていかなければならない訓練なのだということです。

そのための手段が「赦し」です。

「それらは等しく幻想であり、そこに何のちがいはない」というふうに見ている視点こそが、赦しの視点(聖霊の視点)です。

それが、「ヴィジョン」と呼ばれるものです。

その「ヴィジョン」から見るときだけが、幻想と真理の識別ができるわけです。

その訓練を重ねていくことによって、価値判断(ジャッジメント)というものが無意味で無用なのだということが体験的に分かってくるようになります。

すべてが幻想だと見えているなら、そこに価値判断(ジャッジメント)というものが必要でしょうか?

それらすべてが幻想であるなら、それらはすべて「無意味」「無」でしかないわけです。

それによって、自分は「無」を見て動揺しているだけなのだ、ということが自覚されてきますし、そして、動揺そのものも本当はでっちあげた「無」だということが分かってきます。

そして、それらが「無」であると気づけるようになっていくとき、この世界を超えて看過していくことができるようになります。

そのとき、幻想と真理の識別ができる視点に立つことができます。

そこから見るならば、自我が何をしているのか?もはっきりと見ることができます。

もはや、自我がしていることに対して、微笑んで見ることができます。

そうしていくなら、やがては、自我を歓迎するようになっていきます。

自分を動揺させてきたものが、むしろ、本当の自分を思い出すきっかけとすることができるようになっていくのです。

つまり、愛の呼びかけ、愛の呼び声として知覚するようになっていきます。

私たちはコースの実践を通して、そのような知覚へとシフトしていくだけでなく、その知覚を修得することを目残しているということです。


”混沌の「法則」は、決して理解できるようなものではないが、光のもとに運ぶことはできる。 混沌とした法則などというものに意味はなく、したがって、それは理性の枠外にある。 それにもかかわらず、これらの法則は理性と真理に対する障害であるかに見えている。 それならば、それらを冷静に見てみることにしよう。 そうすれば、そうした法則の正体について理解し、それらが主張するものではなく、それらを超えたところを見ることができるようになる。 それらが何のためのものかを理解することは重要である。 というのも、そうした法則は、ものごとを無意味にし、真理を攻撃することを目的としているからである。 これらが、あなたが作り出した世界を支配している法則である。 それでも、それらが統治しているものは無であるから、それらに背く必要はなく、ただ、それらを見て、超えていけばよいだけである。”(T-23.Ⅱ.1)

奇跡講座/中央アート出版社


ようするに、私たちは「赦し」の実践を通して何をしようとしているのか?

というなら、

私たちが知覚しているものがいかに狂ったものであるかを認識していくだけでなく、それらを超えたところから見ている真の知覚(ヴィジョン)を修得していくことを目指しているのだということです。


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