苦痛、苦しみがあるところに、その同じ場所に、真の救いがある
真の救いは何処に
私たちにとっての真の救いは、一体どこにあるのでしょう?
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では、以下のように述べられています。
十字架刑の中に救いがあるということの意味は、つまり、苦痛や苦しみがあるところにこそ、真の解放の鍵が隠されているのだということです。
にもかかわらず、むしろ、そこから逃れようとしているのが、私たちです。
それが何を意味しているのか?というなら、つまるところ、私たちは本当は救われたくないのだということです。
救われることよりも、むしろ十字架刑、つまり苦痛、苦しみを保持し続けたいのだということです。
私たちは、この今も自分(神のひとり子)は十字架刑に掛けられたままだというのに、まったくその自覚がない、といいましょうか、まったく忘れてしまっています。
そして、自分がしていることを外側の世界に投影して、自分の外側にいる者たちを十字架刑に掛けて、自分は無垢なる顔を装っています。
つまり、自分以外の誰かが罪人になることで、自分は救われると思っているのです。
それがこの世界のしくみであり、この世界はそのように作られているといるうことです
そうすることで、自分は安全でいられると信じているのです。
本当は、自分こそが十字架に架けられているというのに、です。
ようするに、自分がもはや何をしているのか?自分が誰なのか?を忘れてしまっている状態になっているのです。
本当は自分以外の他者などいないにもかかわらず、「自分は肉体(身体)である」とすることで、自分以外の他者(身体)を存在させて、彼らを自分の代わりに十字架に架けることができるというわけです。
この二元性の物理世界(宇宙)という忘却のベールによって、自分で自分を十字架に架けていることを思い出さずにいることができているのです。
「私は存在している。でも私が幸せでないのは、私のせいじゃない」と。
自分で自らを神のひとり子であることを否定し、今や、自分は無垢なる被害者になりきって、私たちは「真理を否定している」にもかかわらず、そのことを否認し続けているわけです。
それが、自我の精神力動というものです。
なんという狂気さでしょう。
その真実を認識するならば、誰が十字架に架けられたままの状態をよしとすることなどできるでしょうか。
十字架刑の中に救いが置かれている
もう一度申しますが、私たちは、じつのところ自分で自分を十字架刑に架けているわけですが、それを外側の世界に投影することで、その真実が認識できなくなっています。
「自分はこの世界にいる」と信じていること自体が、自分で自分を十字架に架けているということです。
そのことをまったく理解していないのです。
とはいえ、真理からみるならば、「自分で自分を十字架刑に架ける」ことなどあり得ないわけで、ただの妄想なわけです。
そう、十字架刑も、自分で自分に行っている(と信じている)だけです。
そこにこそ、私たちが救われるためのヒントがあるわけです。
つまり、苦痛、苦しみも、自分で自分に行っているということを思い出すならば、まったく別の見方で見ることができるということです。
それが、「赦し」というものです。
「これは自分で見たくて見ている夢なのだ」と分かっているその視点から見るとき、すべてが単なる自作自演の妄想(虚偽)にしかすぎなかったことを私たちに思い出させてくれます。
コースでいう「赦し」とは、そういうものです。
そのとき、私たちは真に癒され、真に救われます。
真の救いは、そこにあります。
”十字架刑の中に救いが置かれている”ということが何を意味するのか?
というなら、十字架刑があるところに、つまり、苦痛、苦しみがあるその同じ場所に、救い、赦し、癒しがあるのだということです。
ようするに、私たちは、苦痛、苦しみを避けようとするのではなく、苦痛、苦しみがあるところにフォーカスしていくこと、つまり、闇を正視していくことが求められているのだということです。
逆に、苦痛、苦しみを遠ざけようとしたり、避けようとするなら、むしろ、苦痛、苦しみ、闇を保持しようとしているということです。
私たちは闇を直視しなければならないのです。
闇を通り抜けていくならば、闇は無いと分かります。
苦痛、苦しみなどなかった、十字架刑などなかった、つまりは、それらはただの幻想でしかなかった、、、と分かります。
そう、私たちはそれらを直視していくことによって、十字架刑などない(あり得ない)ということを思い出していくことになるのだということです。
言い換えるなら、それらを直視していかないかぎり、赦しも、癒しも、そして真の救いはないということです。
ですから、コース学習者であるならば、コースの実践とはそういうものであるということをしっかりと理解して実践していきましょう。