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この世界で私たちは「アバターごっこ」をしてるだけ
すべては「小さな狂った考え」からはじまった
そもそもが無限なる者であるにもかかわらず、あえて有限なものになっている。
そもそもが無形なる者であるにもかかわらず、あえて有形なものになっている。
そもそもが永遠不滅なる者であるにもかかわらず、あえて死ぬ者として存在している。
わざわざそういう象徴(妄想)を作り出して、そういう象徴(妄想)の中に入り込んで戯れているのが、この世界で私たちがしていることです。
それは、まるで「アバターごっこ」のようなものだといえます。
それは、たんに小さな狂った考え(妄想)にしかすぎなかったわけです。
にもかかわらず、心(の自分)はそこから、さらにもう一歩踏み込む決断をしたわけです。
コース(奇跡のコース/奇跡講座、)では、その決断こそが問題なのだと教えてくれています。
何をしたのか?
というなら、「それはアバターごっこで遊んでいるだけ」ということをあえて自ら忘れるということをしたのです。
それだけではなく、そもそも自分は何者であったか?ということも自らあえて忘れる決断したのです。
妄想であるものを「ごっこ」というものではなく、もっとリアルに体験したいと願望して、神のひとり子である自分は心のパワーを使って、それを自分にやったわけです。
そう、それは、神の子の遊びであったわけです。
その遊びはほんの「小さな狂った考え」からはじまったわけですが、今や私たちはそれを深刻に捉えてしまう狂った者たちになってしまったということです。
”神の子の心の中に罪悪感が受け入れられたことが分離の始まりであり、贖罪を受け入れることが分離の終わりである。あなたが見ている世界は、罪悪感により狂ってしまった者たちによる妄想的体系である。この世界をよく見なさい。そうすれば、その通りだとわかるだろう。なぜなら、世界は処罰の象徴であり、そこを統治しているかに見える法則はすべて、死の法則だからである。子供たちは、痛みを通し、痛みの中で、そこに生まれてくる。彼らの成長には苦しみが伴い、彼らは悲しみと分離と死について学んでいく。心は頭脳の中に閉じ込められているかのようであり、頭脳の働きは、肉体が傷つけば衰えるかに見える。彼らは愛するかに見えるが、互いに見捨て、見捨てられる。彼らには自分の愛するものが失われるように思えるが、これはおそらく、あらゆる信念の中でも最も狂った信念である。そして、彼らの肉体は衰え、息も絶え、地に埋められ、もはや存在しなくなる。神を残酷だと思ったことのない者はひとりもいない。”(T-13.in.2)
その遊び(妄想ごっこ)は、このいまも、毎瞬毎瞬、継続しています。
そして、もはや私たちはその狂気の遊びから抜け出せなくなってしまっています。
有限で、有形な、死ぬ存在として、本当の自分ではない者になりきって、それを信じ込んでいる状態になっています。
その証拠に、自分はこの世界に生まれてきた個人だと思っています。
自分は人間であると。
自分は肉体であると。
それゆえ、自分は傷つくことのできる存在であり、いずれ死ぬ存在だと。
それを自分だと思い込んでしまって、そのことにまったく疑う余地すらありません。
本当は、無限なる、完全なる、永遠なる者であるにもかかわらず、です。
それが、私たちがしていることです。
自分たちはいったい何をしているのでしょう?
そのことを自覚/認識するようになるなら、それがいかに愚かで馬鹿げた茶番であるかが明らかになることでしょう。
もしそのことを自覚/認識するなら、誰もその「アバターごっこ」をし続けようとは思わないでしょう。
それを自覚/認識するなら、誰もがその遊びを終わろうとするでしょう。
認識/自覚していないからこそ、問題なのです。
コース(奇跡のコース/奇跡講座)は、私たちがそのような状態であることを教えてくれているだけでなく、その真実を自覚/認識させてくれる霊性の道だと言うことができます。
コースを学ばなければならないということではけっしてありません。
コースだけが妄想から目覚めていくことを教えている一元論のスピリチュアリティということでもありません。
ですが、なにせ、その真実を自覚/認識するようになるならば、もはやコース(奇跡のコース/奇跡講座)という霊性の道を歩まずにはいられなくなるということははっきり言うことができます。