どれも等しく同じく幻想ならば
良きも悪しきも
この世界で起きることに良きも悪しきもありません。
というのも、そのすべてがどれも等しく実在していないならば、そこに良いも悪いもあるでしょうか。
幻想は、幻想でしかありません。
つまり、無、でしかないということです。
それが何を意味するのか?というなら、
そもそもが「無」なのであるならば、私たちは「無」に対して良し悪しの価値判断をしているにすぎないということです。
そのようにして、良きこと、悪しきこと、と価値判断している私たちは幻想を実在するものとして見ているということです。
ですから、幻想から目覚めることを望んでいるのであれば、価値判断なしに、すべてを同じ幻想として見ていくことが求められているわけです。
そうであるにもかかわらず、私たちはすべてを同じ幻想だとは見ずに、今や幻想に様々な価値を置いてしまっています。
人生が好転したとか、悪化したとか、
生活が向上したとか、破綻したとか、
金運がアップしたとか、下がったとか、
仕事がうまくいったとか、いかなかったとか、
成功したとか、しなかったとか、
健康になったとか、病気になったとか、
いいことが起きたとか、よくないことが起きたとか、
そういった形態にとらわれているということ自体が、つまりは、幻想の中に価値を置いているということなのです。
幻想に価値を置きながら、果たして幻想から自由になることなどできるでしょうか。
そうするならば、むしろ、幻想に縛り付けられることになるだけです。
そう、
この世界のものに価値を置くということがどういうことを意味するのか?
というなら、
つまりは、目覚めることよりも幻想のほうが重要だ!というふうに宣言しているということです。
だからといって、むやみに幻想を否定していけばいい、ということでもありません。
幻想を否定していくような実践をしていくなら、それはただの否認であり、何の解決になりません。
幻想を実在させておきながら、幻想をいくら否定したとしても、結局、その幻想と闘うことになるだけです。
私たちがしていかなければならない実践は、幻想(虚偽)を幻想(虚偽)として見ていくということです。
ようするに、幻想を直視していくことが私たちが実践で求められていることなわけです。
ただし、虚偽を虚偽として見るためには、まず、それを虚偽(幻想)とは見てはいない自分、むしろ虚偽である幻想を重要視している自分を認識することが重要となります。
深刻になりたがっている自分、幻想をリアルだとしがっている自分、それによって個別の自分を存在させたがっている自分、、、
そのすべてが自我であり、そのすべてがでっち上げた幻想(虚偽)なのだということを認識していく必要があるということです。
覚えておかなければならないのは、幻想に良きも悪しきもないということです。
この世界も、この世界で起きることも、この世界で経験することも、そのすべてが虚偽であり、「無」なのだということです。
そう、それらの形而上学を携えてすべてを包含して同じ(虚偽)として見るとき、それが価値判断なしに見ている状態であり、それが「自我を咎めずに見る」ということなのだということです。
そして、それが「赦し」と呼ばれるものだということを覚えておきましょう。
心がどちらの教師を選択しているか?
コースの実践において私たちに求められているのは、どちらの教師と共に見るか?ということです。
つまり、
判断、裁きの教師と共に見るのか?
それとも、
赦し、平安の教師と共に見るのか?
ということです。
普段の私たちは前者である判断、裁きの教師と共に見ている状態になっています。
それゆえ、私たちはその訂正として後者である赦し、平安の教師と共に見る訓練をしていくのだということです。
赦し、平安の教師と共に見るなら、良きも悪しきもなくすべてを同じく(同一に/全一に)幻想として見ることができます。
その知覚こそが、私たちが修得していくべきものなのだということです。
ちなみに、その訓練は、形態や行動とは一切関係がないのだということを忘れてはなりません。
これは、心のレベルにおける訓練なのだということです。
つまり、
心がどちらの教師を選択しているか?
ということにフォーカスしていくということです。
形態から内容へと、つまり、この世界で起きていることから内側の心の状態へと関心がシフトしていくことによって、それに伴って「アイデンティティーのシフト」「知覚のシフト」は起きていきます。
自分とは誰なのか?自分は何をしているのか?
その自覚/認識が次第に明瞭になっていきます。
それが、目覚め、再覚醒、と呼ばれているものです。
いわゆる、そのようにして私たちはこの世界の形態から解放され自由になっていくのであり、この世界の夢から目覚めていくのだということを知っておくとよいでしょう。