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自分は誰で、どこにいて、何をしているのか?

私たちは幻覚を見て、それを信じている

この世界は幻想である。

それが、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の中心的な概念です。

それは文字通り、この世界も、あなたも、この「私」も、すべてが実在しないということを意味します。

言い換えるならば、本当の私たちは「一なるものとしてつながっている一体性(ワンネス)」(T-25.Ⅰ.7:1)なのです。

それが真理なわけです。

でも実際のところ、私たちは、この世界、あなた、「私」といったそれらがあたかも別々に個別に存在しているかのように知覚しています。

ということはどういうことなのか?というなら、

そのように知覚している私たちは真理ではない幻覚(幻想)を見ているということです。

しかも、その幻覚(幻想)を私たちは信じ切ってしまっています。

幻覚(幻想/妄想)を知覚しているにもかかわらず、それをリアルだと信じて疑わない、、、それが今の私たちの状態なのだといえます。

私たちはコースの教えに慣れ親しんでいるにもかかわらず、じつのところ、私たちはこの世界を幻想とはまったく思ってはいなくて、むしろ、そのことはさておいて曖昧なままにしながらコースを学んでいるつもりでいたりするわけです。

そんな私たちは、もはや狂っているとしか言いようがありません。

それを、コースでは「狂気」と呼んでいます。

それでも私たちは、自分たちが狂ってる(狂気)などとはまったく思って(気づいて)はいません。

それよりも、自分が知覚しているものは現実(本当)だと思っていますし、コースが云っている「この世界は幻想である」という教えなど、実際は、まったく信じてなどいないのです。

文字通りの「幻想」とは、まったく思っていないわけです。

というのも、この世界で起きていることに一喜一憂しているのが、その証拠です。

「この世界が幻想だなんて、そんなこと嘘に決まっている。事実、この世界は実際に存在しているではないか。この自分だって存在しているではないか」と。

そのように、コースが教えていることよりも、自分の考えのほうが正しいと主張し続けているのが私たちだといえます。

自分の考えの正当性を証明しようとして、この世界を、この世界で経験していることをその証拠としているのです。

コースを学んでいるコース学習者であってすらも、私たちは相変わらずそういうことをしています。

それでも、コースのイエスはそんな私たちを咎めることはしません。

コースのイエスは、いつか私たちが自分の考えから一歩下がって聖霊(イエス)のほうに耳を傾けることができるように、忍耐強く私たちを導いてくれているといえます。

なので、まず私たちがしなければならないのは、「この世界は幻想である」「神からの分離は起きていない」というコースの教えを受け入れようとはしない自分を自覚/認識するということです。

つまり、コースの教えに対してひどく抵抗している自分を自覚しなさい!ということです。

もしコースの教えを本気で受け入れるなら、今この瞬間にでも目覚めることが可能だというのに、でも私たちは相変わらず、コースの教えよりも自分の考えのほうを正しいとしてしまっているのです。

私たちはすでに自我と同一化してしまっているので、そのことに自覚/認識できなくなってしまっています。

だからこそ、そのことを自覚/認識していくことが私たちには求められているのです。

自我がしていることに気づいていくことです。

それが、とても重要なのです。

自我はとても巧妙です。

コースが教えていることなどまったく受け入れる気がないくせに、コースを学ぶことだってできるわけですから。

それこそ狂っています。

それが、私たちです。

そんな私たちにとっての唯一の救いは、

「自分は間違っている、自分は狂っている、自分は何も分かってない」

ということを自覚/認識していくことであり、そしてその自分を咎めることなく受け入れていくことでしかないということです。

そして、それを受け入れていくとき、私たちはようやくイエス/聖霊という教師と共に歩きはじめることになります。

聖霊やイエスはこの世界をどのように見ているのか?

それについて、ようやく私たちは学ぶことができるようになります。

それは、自分とは誰なのか?何をしているのか?ということについて自覚/認識していく訓練のはじまりだといえます。

その訓練がどれだけの高みへと私たちを導くことになるのか!

その訓練によってもたらされるものがどれだけ素晴らしいものであるか!

その恩寵たるものがどういうものであるか!を本当に理解するなら、誰もがこの訓練の道を喜んで歩んでいこうとすることでしょう。


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