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神秘性、神秘主義について


コースと神秘性はまったく相容れない

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では聖書の言葉が引用されていたり、神、愛、贖罪、聖霊、聖性、赦し、祈り、、、といったキリスト教用語で書かれてあるということもあって、私たちはコースをキリスト教の教えと同じものというふうに捉えてしまいがちです。

でも、コースの教えを理解していくにしたがって、コースはキリスト教の教えとはまったく異なるものであることが分かってきます。

もっといえば、コースは、宗教やスピリチュアリズムにありがちな「神秘」とは無縁の、むしろそういうものとはまったく真逆のスピリチュアリティ(霊性の道)であるということも分かってきます。

ときに、「神秘性」をコースの教えの中に持ち込んで、まるでスピリチュアルの延長のような感覚でコースを学んでいる学習者たちもおられますが、そうすることはコースを歪曲しようとする自我の抵抗以外の何ものでもないといえるでしょう。

というのも、コースの教えを真に理解するならば、コースは「神秘」でも「神聖」でもなければ、スピリチュアルと呼ばれる類いのものとはまったく異なる霊性の道であることが分かるからです。

コースと神秘性はまったく相容れないものと捉えるべきです。

むしろ、コースは明瞭さ、明晰さ、聡明さを伴うスピリチュアリティ(霊性の道)であると言うことができます。

コースはそういうものであるにもかかわらず、私たちはコースを神秘で神聖なものとして扱ってしまい、コースというスピリチュアリティ(霊性の道)すらも自我の隠れ蓑に使おうとします。

私たちコース学習者はそういうことに警戒していかなければなりません。

コースそのものが神聖なのではありません。

その内容は神聖さへと導くものではあるとしても、コースが神聖なのではないということです。

そのことをわきまえていないならば、これまでの宗教と同じようにコースを神聖化、もっといえば、神秘化あるいは偶像化してしまいかねませんし、そうすることはコースの教えの意図するところではないということを肝に銘じておきましょう。


人は「見えない」「わからない」ことを神秘化してごまかす

コースが教えていることの理解が深まっていくにしたがって、コースは「神秘」というものとはまった真逆で、アカデミック(学術的)に学べるスピリチュアリティだということが分かってきます。

そう、コースは、明晰、明瞭、明確、聡明という言葉がピッタリくるスピリチュアリティだと言うことができます。

人は「見えない」「わからない」ことを神秘化してごまかそうとします。

そして、人は、その「神秘」が大好きです。

そのようにして、真理はもはや「神秘」という名のもとに隠されてしまうのです。

でも、コースの学びと実践を通して、その学びが深まっていくとき、隠されていたものが明るみにされていくことになります。

「神秘」という自我のトリックが暴かれ明らかにされていくとき、「神秘」がもはや神秘としては見えなくなっていきます。

どんなふうに見えてくるかというなら、それらすべてが幻想という嘘で固めた茶番、戯画(パロディ)にしか見えなくなってくるということです。

そういう意味で、このコースは、スピリチュアルな探究の最終プロセスであると言うことができるでしょう。

それは、外的探究の無益さ、愚かさを認識していくプロセスでもあるといえるからです。

神秘は、隠されているからそうであって、じつのところ、明らかになったなら、もはや神秘でも何でもありません。

(自己の本性こそがもっとも神秘であるにもかかわらず、それ以外のところに神聖なるものを探していたということです。)

コースの学びとその理解が深かまっていくならば、そういうことが明らかになっていきます。

具体的には、スピリチュアル、自己啓発、ヒーリング、サイキック能力、スピリチュアル能力、、、などなど、そういう類いのものすべてがまさに自我の「まやかし」だと気付けるようになっていきます。

そういった類いのものに心が惹かれなくなっていくということです。

それらが茶番だと分かってくるなら、どうしてそれらに価値や重きを置いたりするでしょう。

むしろ、スピリチュアルとそうでないものとの分け隔てがなくなっていくというふうにもいえましょう。

それが神聖であるがなかろうが、スピリチュアルであろうがなかろうが、そのどれもが同じく自我が作り出したイル―ジョン(幻想)だとして知覚されるということです。

そのようにして私たちは自我から解放されていくのだということです。

そして、それがコースの学びの成果であるといえます。

逆に、もしコースにスピリチュアルな神秘性を持ち込んでいるとしたならば、そのコース学習者はコースを理解していないか、もしくは、コースを歪曲して解釈しているにちがいありません。

神、愛、神聖さ、聖性、ヴィジョン、祈り、聖霊、、、といったたくさんのキリスト用語、スピリチュアル用語が使われてはいますが、その言葉通りに神秘性を持ち込んでコースを学んでいるとしたなら、それはもはやコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいるとはいえません。

私たちがしなければならないことは、「神秘性」や「曖昧さ」の中に隠されているものを明らかにしていくということです。

そこにモヤモヤしたもの、フワフワしたもの、曖昧なものがあるならば、そのときこそ、そこに光を当てていくこと、明らかにしていくことが、コースの実践で私たちがていくべきことなのだということを覚えておきましょう。

何度も申しますが、コースの学びと実践において神秘性は一切持ち込まれないということです。

コースで使用されている用語の意味は、私たちが通常理解しているような意味合いではないということです。

それらの言葉は比喩、あるいは、象徴(シンボル)にしかすぎないということです。

コースは、神秘性、神秘主義とはまるで真逆の霊性の道です。

それはコースに限ったことではなく、そもそも非二元(ノンデュアリティ)の霊性の道は、そういうものだといえます。

コースが教えていることを理解していくならば、とくに、ワプニック博士が解説したものでコースを学んでいくならば、そこに「神秘性」「曖昧さ」といったものが一切ないのを実感することでしょう。

逆に、「明晰さ」「確かさ」へと導かれていくことになるでしょう。


確信があるということはなんと幸いなことだろう!今日はすべての疑いを脇に置く。疑念が去って確かさが訪れたことに感謝しつつ、目的を確信して、自分の持ち場につく。私たちには果たすべき大いなる目的があり、そのゴールの達成に必要なすべては与えられている。(W-pⅠ.98.2:1-3)

奇跡講座/中央アート出版社


これは正しく学ばれそして実践していくならば確実にゴールに到達できる道であると、コースのイエスは教えてくれています。

地道な学びと実践をしていくことにはなりますが、たしかに、その歩みを実感しながら体現していくことができる道だと言うことができます。

コースを学んでいるのであるならば、それはけっして曖昧なまま学ばれてはなりません。

コースという素晴らしく確実な霊性の道を歩んでおきながら、曖昧なままに学ばれることがないように、コース学習者の私たちはぜひともそのことに注意して学んでいくことを怠らないようにしましょう。


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