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神の声は、一日中、私に語りかける

私たちは聖霊の声を拒絶して、自我の声のほうを聞いている

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)のワークブックレッスン49は、以下のような概念ではじまります。


神の声は、一日中、私に語りかける。(W-pI.49)

奇跡講座/中央アート出版社


ここでコース学習者である私たちがつい勘違いしてしまうのが、このレッスンの概念に対してどのように解釈するかというなら、

「神の声を聞きましょう、聖霊の声を聞きましょう」

というふうに解釈してしまうということです。

そして、そのように実践していくことがコースの実践だと思ってしまわけです。

それと似たような実践でよくありがちなのが、聖霊のガイダンスにもっと耳を傾けましょう、というようなものです。

それがいけないということではありませんが、コースの実践はそのようなものではないということを知っておかなければなりません。

実際のところ、私たちがコースの実践においてしなければならないのは、むしろ、私たちはいつも自我の声のほうばかりを聞いているということを自覚/認識していくことのほうなのだということです。

私たちが理解しておかなければならないのは、聖霊の声を聞こうとすることではなく、それを邪魔しようとする「愛を阻む障壁」(T-16.IV.6:1)のほうを見つけ出していくことなわけです。

なぜなら、それらが「愛を阻む障壁」であると認識されることによって、それらは取り消されていくからです。

つまり、神の声が一日を通して語りかけているにもかかわらず、私たちはそれを拒絶しているということ、そして自我の声のほうばかりに耳を傾けているということ、そのことを認識していくことが私たちに求められているということです。

喩えるなら、自我の雑音はそのままで、聖霊の声のボリュームだけを上げようとしていくような実践なのではないということです。

自我の声(雑音)を認識していくこと、そして、それを取り消していかないかぎり、神の声(聖霊の声)を聞くことはあり得ないということです。

私たちがしていくべき実践は、「聖霊の声を聞きましょう」というような訓練なのではないということです。

私たちはつい、そのようなやり方で実践してしまいがちであるということをしっかりと理解しておきましょう。

もしそのような訓練をしているとするならば、まったく実践の意味をなさないどころか、むしろ自我を強めていくことになってしまいかねません。

それが自我の声であるにもかかわらず、それを聖霊の声だと信じて、それによって歪曲した学びと実践になっていきかねないということです。

繰り返し申しますが、私たちがコースの実践においてしなければならないのは、「いつも聖霊の声を拒絶して、自我の声のほうを聞いている」ことを自覚/認識していくということです。

それによって、自我の声、つまり、自我の思考体系から一歩退くことができるようになっていくのです。

それが、「自我を教師とする代わりに聖霊を教師とする」という実践です。

私たちがコースの実践においてしていくことは、そういうものだということをしっかり理解しておきましょう。


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