唯一の愛し方は愛されること/ひろこ
こんばんは。ひろこです。
先日とうとうコロナにかかってしまいました。
まず同居の家族が感染し、しばらくすると自分の体調もおかしくなってきたのです。
最初は、家族が私にうつしてしまったという罪悪感を抱えさせたいという投影をしているのでは?という思いもあって、感染しないようにと必死に祈っていたのですが、この世界のことはすべて幻想なのに病気に対してだけ祈るのはおかしいのではないか?という思いがふと湧きあがり
「コロナになってもならなくてもどちらでもいい、すべてを奇跡の道具としてください」というお祈りに変わりました。
そのとたん心がフワッと解放されて、温かく広がっていくのを感じました。
自分でコントロールしようとしていてギュッと固くにぎりしめていたものを
手放したような感覚でした。
でもそれと同時に体はどんどん悪化していき、ひどい頭痛と体中の痛み、そして飲んだ薬さえすぐに吐いてしまうほどの吐き気に見舞われました。
そんな時、夫が冷えたぶどうを持ってきてくれました。
水分さえなかなか取れない状態だったのに、ぶどうなんて~と思ったのですが、これはぶどうなのではなく、夫が差し出してくれた愛を受け取ると思って食べてみようと思いました。
そのぶどうは本当に冷たくて、みずみずしくて、そんな状態の私でもとても美味しく食べられたのです。
そしてその後しばらく、薬を飲んだかのように休むことができました。
すべては"愛のやりとり"だけなのだなと心から感じました。
その日の午後は、痛みで寝つくこともできず、目の奥が痛むので、見ることも読むこともできない状態だったので、前日のかさきさんのオンラインの講座を聞きながら横になっていました。
その中で、「唯一の愛し方、一番素晴らしい愛し方とは、愛されるということ」「人は愛する力によってしか生命の発動はできないから」とおっしゃったのがとても心に響きました。
朝のぶどうがふと心に浮かびました。
エゴは愛されることが苦手。
本当にそうだなと思います。
「与えることと受け取ることは同じ」という言葉は何度も繰り返し聞いていて、与えること、愛することは意識していましたが、どれだけ愛されること、受け取ることを意識してきただろうか?
相手のためにと思ってのことが、相手の癒しの妨げになっていたのかもしれないとも思いました。
与えること、愛することと同じくらい受け取ること、愛されることも大事なのですね。
受け取ろう、愛されようとしないことは、相手を信頼していないことの証しだと気づかされました。
コロナにはかかってしまいましたが、大事なことを受け取れる機会となり、またどんなことも聖霊は奇跡の道具として用いてくださるということへの確信も深めることができました。
これからは、受け取ること、愛されることにも心を開いて過ごしていきたいと思います。
最後までお読みくださりありがとうございました。
ひろこ