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気づけるだけの土台がなけりゃ。

いくら気づきの種が転がっていても、芽も出ないし育ちやしないですよね。


5分ほど前まで夢の世界にいた。夢の世界の私が「毎朝、5分でもいいからnote書きたいなぁ」などとぽつぽつ言っていたので、これはまた何か書き始めるいい機会なのでは?と思い、まだ半分閉じたままの瞳でパソコンに向き合っている。まだちょっと眠いけれど、キーボードをたたくうちに目が覚めたらラッキーだな。さて何を書こうか。

昨日、5年ほどの付き合いになる友人と久しぶりに電話をした。価値観は近いけれども視点は違う、そして相手を否定しない彼女との会話は楽しく、また互いに対話をしながら深く深く思考を進めていく中で、はっとする瞬間にいくつも出会った。

恐らく気づきとかいうやつなんだろう、これが。


感情はそれぞれ別個であり、そのバランスはグラデーションである。

取り繕ってキラキラに見せても、滲み出る悪意までは隠し切れない。

得体の知れない不安に言葉で輪郭を与えられたのなら、向き合える。

言語化する能力は使い続けていないと、衰えて言葉が出づらくなる。

「未来」は「今」と地続きだから、「今」を疎かにしては本末転倒。

求められているならアドバイス、求められてないなら余計なお節介。

その問題に対して自分は当事者?第三者?首を突っ込むべき問題か?

あの人を「気に食わない」感情の原因は、嫌悪なのか?嫉妬なのか?

物事を理解できない側がばかなのか?伝えられない方が怠惰なのか?


一人で黙々と考え続けることもきっと大切だとは思うけれど、やはりどこかで上限が、限界がある。「人と話す」と、同じ問題に対しても別のフィルターを通して見えた様々な色の答えに出会えるわけで、そういう自分にはない視点を知るからきっと人間はいろんな色が織り交ざったその人らしさを作り上げていくんだろうなぁ、なんて考えてみたり。

自分と違う意見は別に敵でもなんでもないんだよ、赤に黄色が混ざればオレンジになれるし、青が重なれば紫にだって出会えるし。違う意見は自分をグラデーションにして「らしさ」を創り出すきっかけに過ぎないんだ。多分。

もちろん、譲れないところは混ざらない鮮やかさを持ってればいいし。


目が覚めてきた。洗濯を干して朝ごはんを食べたら、何をしようかな。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。何かあなた様の心に残せるものであったなら、わたしは幸せです。